ぶしのはじめ③

満仲は、八条にある経基の屋敷に入った。

屋敷に逗留すること数日、除目が発表された。「武蔵権守」

が、満仲が除目で得た官職だった。位階は六位。

「実にありがたいことにおじゃる。お礼申し上げる」

満仲は満面の笑みで、経基の手を取ってお礼を言った。

満仲は経基と源氏長者の源高明、そして左大臣藤原実頼に礼物を進上した。

国司になれば、京に送る税以外は自分の懐に入れることができる。

その収入で開墾し、自らの荘園を増やす。その際連れてきた人員を置いていく。それで人減らしができる。京は悪党を減らして、満仲は荘園を増やせる。

満仲は武蔵に下向した。

税収のかすりを取り、その収入で土地を開墾した。

さらにその土地を藤原氏に寄進し、次の除目でまた国司の地位を得る。

国司として赴任して、満仲にはいくつか収穫があった。

ひとつは、満仲に寄進する豪族達がいたこと。これで満仲の収入はさらに増える。

ふたつ目は、坂東には平将門の影響がまだ色濃く残っていることだ。武蔵にはいないが、坂東には将門の子孫を名乗る豪族がいくつかある。

満仲が土地を開墾し、荘園を作ろうとすると、近隣の豪族と土地争いが起こった。

満仲は郎党を率いてその豪族と戦った。双方2、30騎程度の争いだったが、坂東の武者は皆一騎打ちで戦った。それも将門以来の風習だという。

辛うじて満仲は、その豪族を撃退した。するとその豪族は、満仲の郎党となった。

さらに、坂東には嫁入り婚の風習ができていた。

(これは、我が源氏は坂東にも根を持った方が良いやもしれぬ)

満仲は思った。


京に戻って、満仲は実頼の屋敷に伺候して忠勤に励んだ。

ちょうどその頃、源俊が亡くなった。

怜子は左京一条にある屋敷の女主人となったが、満仲が夫である以上、満仲を憚って怜子の元に通う男はいなくなった。

こうなると、男は女の有り難みがわからなくなる。

満仲は得意満面で、藤原致忠の娘と、藤原元方の娘のところに通い始めた。

どちらの家でも、満仲を拒んだりはしない。

相変わらず、武勇というものは公家によって蔑まされている。

しかし、庶民には武勇優れた者は人気があった。

治安の悪い、人の心が不安定な時代だから、人は強い者に憧れるのである。

しかし満仲よりもっと人気のある者があった。藤原秀郷の子の藤原千晴である。

千晴も秀郷に似た剛の者で、洛中では最も人気のある武人だった。

満仲が京に戻ると、周辺の豪族が満仲に寄進をしてきた。

全ては、順風満帆。

天徳四年(960年)、平将門の遺児が入京したという噂が入った。

朝廷は、平将門に対し相当のトラウマがある。

「捜索し捕縛せよ」

と綸旨があり、満仲も捜査の一員に加わった。

その間、2、3の盗賊や匪賊を捕まえた。

その際、匪賊の根城を突き止めるにあたり、

「まろに仕えよ」と、匪賊の仲間に持ちかけ、多数の匪賊を傘下に引き入れた。

朝廷は、この満仲の措置を喜んだ。

何しろこの時代、軍隊というものがほとんどないのである。

桓武天皇の時代に、正丁(成人男子)の三人に一人と律令で定められていた軍隊は、有力者の子弟などによる健児(こんでい)の制に改められた。健児の数は、全国51ヶ国で3155人。軍隊廃止といっていい。

京はまだ辛うじて警察機能があったが、それも増加する一方の犯罪の全てに対処できるほどのものではない。

元匪賊でも、満仲の郎党になって犯罪を犯さないようになり、代わりに犯罪の取り締まりをしてくれるなら、朝廷としては儲けものだった。

結局、将門の遺児は見つからなかったが、朝廷は噂が消えただけで安心した。

ただし、事はそう簡単ではない。

満仲の郎党になったからといって、元匪賊がみんな犯罪を犯さなくなる訳ではない。

満仲は元匪賊達を多田庄や渡辺庄、その他の自分の荘園に送り込んで、京にいる元匪賊を減らしているが、彼らがいつ犯罪に走らないとも限らない。

早急に対策を打つ必要が生じた。


そんな中、経基が病気になった。

満仲は経基を見舞った。

「まろは苦しい…」

経基は、病床から満仲に言った。満仲が経基に接近していることについて、他の清和源氏からあれこれと言われているらしい。

(清和源氏の乗っ取りが読まれているか)

満仲は思った。

そんなある日、

(……)

屋敷で晩酌をしていた満仲は、つと立ち上がり、

「屋敷の外を見て参れ」

と言って、自らは薙刀を持った。その時、

「わあー!」

と、四方から声が上がった。

源俊の屋敷は、寝殿の他にもう一棟あるだけの屋敷である。

満仲は寝殿に入った。

「奥よ、ここを動くでないぞ」

と、満仲は怜子に声をかけた。

怜子は脅えていた。

(まろにとって、必要な女ではもうないが)

既に、屋敷のあちこちから剣戟の音が聞こえていた。

満仲は遣戸を開けた。

だたっと走ってくる者を、満仲は斬った。

濡れ縁から飛び降り、2、3度薙刀を払うと、うめき声と共に、数人、人が倒れた。

しばらくして、剣戟の音が鳴りを潜めた。

郎党から報告があり、屋敷に押し入った賊はあらかた片付けたようだった。

賊は20人程度、そのうち2、3人は捕らえたとのことだった。

満仲は早速弾正台に報告し、賊を尋問した。

満仲はひたすら左大臣藤原実頼の元に伺候した。

やがて、下手人が主犯について白状した。

下手人は倉橋弘重という者で、主犯は醍醐天皇の皇孫親繁王、共犯が源蕃基だということだった。 

源蕃基は清和天皇の皇孫、つまり経基の従兄弟である。

親繁王が主犯とされたのは、藤原氏による陰謀である。

つまり皇統に近い醍醐天皇の系統が、力をつけてこないため、事前に潰しをかけたのである。

源俊の屋敷が襲撃を受けたのも満仲の自作自演で、満仲が元盗賊の郎党を使って、近隣の野盗に屋敷を襲うように細工させたのである。

源蕃基が共犯とされたのは、清和源氏を凋落させるためだった。

清和源氏は16流あるが、経基を筆頭に、満仲の淳和源氏より位の高い者が多い。このままでは満仲の源氏は清和源氏の後塵を排し続けることになる。だから清和源氏全体に打撃を与えることにしたのである。

この騒ぎの中で、源経基は世を去った。

源高明は慌てた。源高明は醍醐天皇の皇子である。さらに源氏長者として、清和源氏がこのまま凋落するのを黙って見てはいられなかった。

かつて応天門の変で、応天門に人をつけたのが源信だと訴えた大納言伴善男が、一転して善男が犯人だと訴えられて一気に凋落したのを、京の人々は思い出していた。

源高明が、藤原実頼の屋敷に何度か通うのを、京の人々は何度か目撃した。やがて、

「親繁王、源蕃基は嫌疑不十分」

との判決が降った。

(これでいい)

満仲は思った。満仲の狙いは清和源氏の乗っ取りにある。清和源氏の名に傷がついては意味がない。しかしこの一件で、清和源氏の官途の道は暗くなった。

現天皇に近い醍醐源氏が狙われて、源高明は警戒心を強めた。その源高明に、藤原千晴が接近していった。

そんな中で、

「京を伺う匪賊を退治せよ」

と、満仲に勅が降った。

(よしきた!)

毒をもって毒を制す。

これが、源俊邸襲撃により、京の治安を憂慮した朝廷が講じた手段だった。

満仲は50騎ほどの兵を率い、京の近郊の盗賊の根城を潰していった。

匪賊といっても、治安の悪化をいいことに、旅人相手に盗みを働く開墾地主もいる。

そういう者達が、満仲に荘園の寄進を申し出てきた。

こうして満仲は益々富み、郎党に盗みを禁じ、背く者は厳罰に処すと命令すると、京の治安は良くなった。

満仲はこの功により、左馬助に任じられた。

しかし、喜んでばかりもいられないのは、藤原千晴もまた盗賊退治の勅を受けて、手柄を挙げたからだった。

康保2年(965年)、満仲は村上天皇の鷹飼になった。

鷹飼といっても、蔵人である。天皇の秘書的な役割である。

藤原実頼の計らいだった。天皇に近侍して、自らの立場を良くしろということである。

一方で、陰謀は進められた。

源高明は右大臣兼左近衛大将に任じられ、娘を春宮候補の為平親王の妃とした。

康保4年、村上天皇が崩御し、冷泉天皇が即位した。

天皇の崩御やや摂関の薨去の場合、伊勢の鈴鹿関、美濃の不破関、近江の逢坂関の三関を閉ざし、通行を禁ずるのが慣例だった。その関所を閉ざす職を固関使という。

その固関使に、満仲と藤原千晴が任命された。

これで、満仲と千晴は京を離れなければならなくなる。

ここまでは、予定通りである。

源高明が藤原氏のライバルである以上、高明に仕える藤原千晴だけを固関使として派遣しては片手落ちになる。

世間が納得する処置をして、その上で策略を施す。藤原氏の常套手段である。

さらに源高明は、左大臣に任じられた。冷泉帝に狂気の病があり、そのために関白職を復活させ、藤原実頼が就いたことによる昇格人事である。

しかし、高明にはこれほどの権力基盤はないのである。

醍醐天皇の皇子とはいえ、高明は藤原氏との婚姻関係でその地位を保ってきた。

高明は実頼の弟の藤原師輔の娘を妻としており、また師輔の娘の安子は村上天皇の中宮だった。しかし天徳4年(960年)に師輔が、康保元年(964年)に安子が死ぬと、高明は藤原氏側からの支持者を失っていた。

こういう、身の丈に合わない出世をさせて、その者の正気を失わせる策を位打ちという。

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