伊達政宗③

(どうすべきか…)

小十郎は考えた。小十郎の言葉次第で、政宗の生死を分かつ決断になるだろう。

「左様」

小十郎は答えた。「田村と蘆名の争いについては、なんとかせねばなりませぬな」

「うむ」

当時、奥州南部には強い勢力がない。

相馬、田村、蘆名が頭ひとつ抜きん出ている程度で、他は弱小といって良かった。

伊達は田村とも、蘆名とも同盟しているが、田村と蘆名が争っているのである。

父の輝宗も、両者の争いには腐心したが、収拾できず、蘆名盛隆の死を機会に政宗に家督を譲ったのである。

つまり、小次郎を蘆名の養子に送り込めるなら、蘆名と提携して越後入りの話を進め、それができなければ、蘆名と手を切って田村との結びつきを強めよという含みがある。

(大殿(輝宗)も酷なことを、殿に押し付けなさった)

と、小十郎は思う。小次郎の養子縁組が失政すれば、政宗が家中から批判されることになる。さらには元々仲のいいとはいえない小次郎と、生母の義姫からは顰蹙を買うだろう。

(殿がお気の毒である)

と思うと、小十郎は胸が張り裂けそうになる。政宗が幼少の時から、小十郎は政宗に対し、物わかりのいい兄のように仕えてきたのである。そして同時に、

(これが主君に仕えるということか)

と、小十郎は思った。自由平等の思想のない時代、武士は主君に自分の全存在を賭けて仕えた。主君に忠であることが、所詮は不完全な人間の存在の証明であった。

「蘆名は、小次郎をもらってくれるかな?」

政宗が言った。

「難しゅうございますな」

と小十郎が言ったのは、常陸の佐竹もまた、蘆名を影響下に置こうとしていたからである。先代盛隆が元人質だったことから、蘆名家中は伊達家につく派と佐竹につく派で分かれていた。

伊達派は輝宗が、先々代の盛興の父の盛氏と、小次郎が成長したら養子にもらう約束をしていたのに加え、盛興と盛隆の正室だった伊達御前がいる。

しかし、盛隆は人質から蘆名の家名を継いだことと、伊達家の存在感を感じさせる伊達御前への反発からか、佐竹に接近し、佐竹義重を会津黒川城(会津若松城)に招待までしたのである。天正9年(1581年)のことだ。

「蘆名の佐竹派の動きによっては、残念ながらご縁がないということにもなりかねませぬが、この件はまだ様子を見る時間がございましょう。まずは筑前殿(秀吉)と誼を結ぶことでござりましょう」

「小十郎は、筑前という男をどう見る?」

「この奥州では、上方の動きを知るのに限りがございますが、実に寛容で、華やかなことから好きな御仁と見受けまする」

小十郎の見る秀吉は、権力者の持つ暗さとはおよそ無縁な、むしろ底抜けに明るい人物だった。

小牧・長久手の戦いで、秀吉が家康に負けた時、

「家康は花も身もある見事な大将よ、その家康を、儂の前にひれ伏させてみせる」

と言ったという。

(秀吉は、華やかさを求めている)

と、小十郎は思った。恐らく天下人としての器の大きさを示すためだろう。

小牧・長久手の戦いでは、秀吉は家康を倒すことができなかった。卑賤の出から立身出世した秀吉の境遇を考えれば、今後は敵対勢力に融和する姿勢を取らざるを得ないだろう。つまり政宗も、秀吉の政権の下で生き残る目はあるということだ。

(家康に勝てなかった秀吉は、家康の勢力を削ろうとはせずに、取り込もうとするのではないか?)

そうなれば、秀吉の政権は基盤の弱いものとなり、政宗が生き残る目は大きくなる。

「その上で、殿が万海上人の生まれ変わりであるという話を広げることが寛容かと存じまする」

「ーー上方にか?」

「左様」

「上方で通じる話だろうか?」

政宗は眉間に皺を寄せた。

この時代、上方の精神は既にリアリズムである。

政宗も自分を「万海上人の生まれ変わり」と自慢げに語っているが、中央のリアリズムに晒されて否定されたくはない。

「筑前殿に奥州のことを知って頂くのも重要かと存じまする」

上方はリアリズムといっても、迷信がなくなった訳ではない。

(この「生まれ変わり」説に、筑前殿がどう反応するか)

政宗が万海上人の生まれ変わりだという噂を聞けば、秀吉は面白がるだろう。

そして、そういう特別な宿命を背負った政宗に対し、殺したり取り潰したりするよりは、うまく飼いならして手駒にしようと考えるのではないか?小十郎がそう話すと、

「ふーむ」

と、政宗は唸った。そして、

「もうすぐ正月じゃ、その時に筑前殿に礼物を届けるとしよう」

と言った。


天正13年(1585年)正月、小浜城の大内定綱が米沢城にやってきて、伊達家への帰参を申し出た。

「妻子を米沢に人質に置く」

と、定綱は言ってきたのである。当然、政宗は快く受け入れた。

「備前(定綱)は、探りを入れてきたのでございましょう」

と、小十郎は政宗に言った。

政宗も、それがわかっている。

大内定綱は、相馬や蘆名、田村といった強い勢力ではない。

二本松の畠山義継と共に、奥州南部では弱小の部類に入る勢力だった。それだけに、周囲の動向には一際気を配らねばならなかった。

定綱は弱小輝宗の代に伊達家に臣従していたが、反覆常がない。

畠山義継の子に娘を嫁がせた縁で、伊達氏と同盟を結んでいた愛姫の父、田村清顕を蘆名と畠山と組んで攻撃したの゙は、この定綱である。

定綱は、いつまで待っても妻子を米沢に送ってこなかった。催促しても、

「いずれは」

というだけで、自身も政宗の下に伺候しない。

5月、蘆名の家臣で、関柴の松本輔弘が、「定綱、畠山義継、蘆名、佐竹が連動して反伊達の動きをしている」と伝えてきた。

「敵は蘆名じゃ!」

と言って、政宗は原田宗時を猿倉峠(現大峠)から関柴に向かうように命じ、宗時は1500の兵を率いて出陣した。また政宗自身は、5000の兵を率いて、檜原峠を越えて侵攻した。

政宗が戦場に到着する前に、松本で輔弘は討死していたが、政宗が到着すると、蘆名勢は数の上で劣勢になった。

関柴の隣には耶麻郡桧原があり、桧原を支配する土豪は穴沢氏だった。

政宗は穴沢一族の四郎兵衛の内応を受けており、政宗は1500の兵を分けて桧原に向かわせた。穴沢勢は退路を絶たれ、当主の穴沢利光は自刃した。

政宗は関柴と桧原を得て、桧原に城を築き、後藤信康に守らせた。

(次は備前じゃ)

8月、政宗は兵を動かし、大内定綱の居城、小浜城の支城の小手森城を攻撃した。

伊達勢が城門を破り、城内に入ると、

「それっ!撫で斬りにせよ」

と、政宗は厳命した。

城内は阿鼻叫喚の地獄となった。政宗は、伊達家に逆らう者は現れないように、小手森城を見せしめにしたのである。

奥州では、このような虐殺は例のないことだった。

大内定綱は小浜城を出て、二本松に向けて逃亡した。

次に政宗は、定綱が捨てた小浜城に入り、畠山義継の二本松城を攻撃した。

なお、輝宗も定綱と義継を攻めるこのいくさに参陣している。輝宗は、小浜城のもうひとつのして城である宮森城を、小手森城と前後して落していたのでそこに入城していた。

義継は敵し難いと見て、政宗と共に参陣していた輝宗を通じ、降伏を申し入れた。

ところが、政宗が義継に突きつけた降伏の条件は、五ヶ村のみを安堵して、残りの領地は没収するという、厳しいものだった。

政宗は、もう蘆名に小次郎を送り込む目はなくなったと思っていた。まだ赤ん坊の亀王丸を当主にし、家臣が家政を壟断する蘆名は、佐竹の手に落ちる可能性が高い。

南奥州の土豪達の勝手を許しては、南奥州全体で佐竹につき、反伊達となる可能性があった。それを防ぐには、若い当主である政宗は、恐怖をもってするしかなかった。

義継は、政宗との仲介に骨を負ってくれた輝宗に礼を述べるため、輝宗が入る宮森城に伺候した。

輝宗は、深く義継に同情しているようだった。

田村と蘆名の対立を例に見るように、輝宗は傘下の諸豪が反目しあっても、なるべくうまくなだめて、大きくまとめていこうとする男だった。南奥州の諸勢力は、まだ若い政宗になじまず、隠居の輝宗に期待を寄せるところが大きかった。

輝宗と義継の面会には、伊達成実と留守政景が同席していた。留守政景は輝宗の弟で、伊達成実は天文の乱の発端となった伊達実元の子で、母は晴宗の娘だから、輝宗にとっては従兄弟であり甥でもあり、政宗にとっては叔父であり従兄弟でもある。

そういうこともあって、輝宗はあえて政宗に家督を譲ったということもあった。つまりは二元体制で、政宗が諸豪に厳しく当たり、輝宗が反発する諸勢力をなだめることで、南奥州の土豪を伊達の傘下に置き続けることが、この二元体制の狙いだった。

それでなくても、輝宗は相手の立場に立って、心底同情してしまうところがある。

「よくぞ辛抱された」

と輝宗は言って、今にも義継に抱きつかんばかりの接待をして、義継が帰る時には、城門の外まで出て送り迎えした。

その時、

「かかれ!」

と義継が言うと、かねてから打ち合わせてあったようで、義継の近習が一斉に刀を抜いて輝宗の近習達に遅いかかり、近習達を斬って輝宗の首に刀を当てた。

「なっ…」

輝宗が騒ごうとすると、

「左京大夫殿(輝宗)、城まで来てもらおう」

と義継は言った。そして、

「下手に動けば左京大夫の命はないぞ!」

と、義継達を取り囲む伊達勢に向かって叫び、二本松城に向けて歩き出した。

この時、政宗は鷹狩りに出ていたが、輝宗が拉致されたとの報を聞いて、急ぎ宮森城に駆けつけた。

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