コパカバーナ③
浜口と陽子は車に乗った。運転は陽子がする。
「ーー日本人は様々な淡い色合いを好みますね。それは枯山水から来てるんじゃないかと思うんですよ」浜口が言った。
「枯山水?」陽子が言った。
「そう、枯山水は美ではない。しかし枯山水があるから、はっきりとした色でなくてもそこに美を感じる」
「昨日の桜の話の続きですか?」
「そうなりますね。やっぱりやめときます。すみませんでした」
「いえ、続けてください」そう言いながらも、陽子は内心愉快ではない。
「谷崎潤一郎が『陰翳礼賛』という本を書いていますね。日本では伝統的に家の中には影があり、漆器や蒔絵も陰翳の中でこそ映えると。西洋人が家の中の影を消していくのとは違うとね。しかし私が昨日言ったように、美とは近づきたい、触れたい、いつまでも眺めていたいというもののはずです。淡い色や陰翳の中で美を称賛するというのは無理がある。みんなほんとは欲望に忠実なのではないのではないか?とそう思う訳ですよ」
「この近くに、枯山水のお寺がありますよ。見てみますか?」
陽子がそう言ったのは、さすがに腹が立ってきたからだった。
「では、見てみましょうか」
陽子は道を右に曲がり、路地を走らせ、何度か右左折を繰り返して、寺に着いた。そして寺の住職に頼み込み、枯山水の庭を見せてもらった。
「見事な、というべきなんでしょうな」
笑顔を絶やさず、浜口は言った。住職は相好を崩して、枯山水の説明をしていた。
5分ほど枯山水の庭を眺めて、二人は住職に挨拶して寺を出た。
「ーー夏の暑い日に、こんな庭を見たくないとは思わないのかね」
浜口が言った。「禅寺の庭でも、西芳寺の苔の庭園は名園だ」
「西芳寺?」
「苔寺として有名ですよ。もっともあれも枯山水ですが。しかし苔すらない庭を見ていたいなんてーー長沼さん、ちょっと車をあっちにやってもらえませんか?」
と言って、浜口はすぐ近くの小高い丘を指差した。
陽子がその丘に車を止めると、浜口は車を降りた。
「何をするんですか?」陽子が聞いた。下にはさっきの寺が見える。
「これですよ」と言って浜口がバッグから取り出したのは、爆竹だった。
「え?」
「車の中に居てください。すぐに戻りますから」
と言って、浜口は丘を降っていった。
丘からは、寺の様子がよく見える。
やがて、寺の中から僧が何人か、枯山水の庭に飛び出してきた。音は聞こえなかったが、浜口が庭に爆竹を投げたのは明らかだった。
息せき切って、浜口が走って丘を登ってきた。
「ーーやったんですか?」陽子が聞いた。
「ええ」浜口は息を切らしながら笑った。
「乗ってください!」
陽子が言って、浜口は車に乗った。
「こんなとこ、誰かに見られたらーー」
陽子が呟くと、浜口は大笑いした。
「どうせ注意されるだけですよ。噂になったら『自分とは関係ない人だ』と言えばいい」
「それにしてもこんなことーー」と言って、陽子は吹き出してしまった。
「まあ、やって見たかったんですよ」
そこで、浜口の携帯の電話が鳴った。
「ーーああ、今そっちに向かっているところだ」
村井からだった。
「それで、悪いんだけど、今日社員が休んでさ、今から入れないか?」
「いいよ」
電話が切れた。
「今から入ってだって」浜口は陽子に言った。
浜口と陽子がついたのは、古い、小さな工場だった。
「古い工場を買い取ったんだ」村井が言った。
村井は浜口に、設備を案内した。
村井から仕事の手順を教わって、浜口は仕事に取り掛かった。
作業は、金属の製品を使って、ゼロ調整という元の高さを設定し、科学反応を利用して膜を張った製品の膜圧を測っていく作業である。
「この膜圧が基準に入ってない時はどうするんだ?」浜口が聞いた。
「その時は測り直す」村井が言った。
「随分と基準から外れているものが多いようだが」
「え?」
「この膜圧というものはなんだ?」
村井が答えないでいると、浜口は脇にある金属の板を手に取った。
「このゼロ板を使ってみようーー3ミクロンは厚くなるな。ゼロ板は厚さ5ミリはあるから。膜圧は高さを測ってるんじゃない。このゼロ板は粗さが全くない硬い金属の板だ。一方この製品には粗さがある。粗さがあるということは柔らかいところがあるということだ。つまりゼロ調整とは硬さ、膜圧は柔らかさだ。膜圧が基準より薄いというのは、製品の粗さが大きくて柔らかい部分なんだろう。その後膜圧を測っても、ゼロが柔らかいから正しい数字が出ない」
「なるほど…」村井は絶句した。
「膜圧測定とは別の測定法もした方がいい」
「わかった、考えてみる。しかしよく始めたばっかでわかったな」
「実はこれ、やったことあるんだ」
「ならそれを早く言ってくれよ」村井は苦笑した。
「やったことがあるといっても、わずかな期間だ。その時はなんで膜圧にばらつきが出るのかわからなかった。それで仕事を辞めても、膜圧とはなんだとずっと考えてた。今日自分の考えが正しかったと確信できて良かったーー気をつけろよ。下から嘘の報告が上がっているなんてざらにあることだ」
「まさか!そんなことがあったら取引先からクレーム、いや取引停止だよ」
「設計図の時点で変更されているのかもしれん。実際に膜圧とかが違っても、製品の大きさを小さくして製造、納品してるとかな。製品の大きさが変わらない以上、取引先からクレームはこない」
「そんな…」村井は青くなった。
「グローバリズム全盛の時代は、取引先がよく作業を見学に来てたもんだ。しかしいつの間にかそれもやめてしまう。日本の企業は所詮内向きで、臭いもんには蓋をするからな」
「日本の製造業は優秀だぞ」
「臭いもんに蓋をしてもなお優秀だってことだ。日本の製造業が海外に工場を移転させていた時には、よく海外からクレームがきた。アジア地域は賃金が安くて、その分良い製品を作るという意識に乏しかった。それがある時突然、働く人達の意識が変わって不具合が見つかる。そうしてクレームになる。その分海外の賃金が上がる」
「…」
作業が終わった。
「村井、これを見てくれ」
そう言って、浜口が鞄から取り出したのはピストルだった。
「え?」
「いたんだよ、ここに俺の父親を追い落とした真上が」
「お前、まさかーー」
「そのまさかだ。俺はそのために亀嵩に来たんだ」
浜口はピストルをしまった。
「ーーあら、あのおじいさん」
陽子が出てきて言った。「また桜を見てる。よっぽど桜が好きなんでしょうね」
「桜ももう七分咲きですね。最近は咲き始めから散るまでが早い。しかももうじき日が暮れる。とすると夜桜の花見ですな」
「夜桜はどうですか?夜桜は風景美ですか?」陽子が浜口に聞いた。
「ライトアップすれば夜桜はきれいですよ」浜口が答えた。
「じゃ、また明日」
「ああ」
そう言って、浜口は帰っていった。
「父を探してるなんて、聞いてなかった」
「え?」
ベッドの上で、陽子は村井の言葉に反応した。
「なんで浜口にそんなこと言ったの?」
「ーー言っちゃいけなかった?」
「問題は、俺が君のことを知らないことだよ」
「娘が父親に会いたいと思うのは、当たり前じゃないの?」
「そうだけどさ」
(肝心な問題がはぐらかされている)
村井は思った。陽子はいつも、自分の奥にある問題に村井を踏み込ませない。
そのことに苛立ちを感じることもあった。陽子をよく知って、陽子との未来を見たいと思いもした。しかしその度に陽子の奥に入り込むのを諦めたのは別居中とはいえ結婚しているからばかりではなかった。
(陽子は結局、ここには留まらない)
と、その度に思うしかなかった。こうやって一緒に暮らしていても、陽子は村井を愛していない。それならそれで、いつか陽子が自分から離れていくまで、1日1日を楽しく過ごしていけばいい。そう思っていた。
(女から見て、俺みたいな男は面白味がないんだろうな)
誰に対しても、人を傷つけることができず、損な役割を演じてしまうのである。
しかし陽子は、今日自分を見せた。それも浜口に対して。
(俺は浜口に対しては、浜口を受け止めるのが自分の役割だと思っていた。しかし浜口が俺の大事なものを奪ってしまうとしたら、俺はどうすればいいんだろう)
それにしても気になるのは、浜口が見せたピストルである。
(本当に真上という奴を殺すんだろうか)
翌日、浜口は出勤してきた。
「よろしくお願いします」
と言ったのは、まだ二十歳そこそこの、会田という青年である。
仕事が始まったが、浜口が昨日半日しかやってないのに仕事を飲みこんでいるのに対して、会田は動きが遅い。
「ーー浜口さん仕事早いっすね」会田が言った。
「元は遅かったよ。製造業はどの仕事にも共通するところがあるから、それを掴めばね」浜口が答えた。
昼食時、浜口は弁当を買っていて、それを村井と陽子と一緒に食べた。会田は外に食事に出かけた。
「ーー苦労してるようだな」浜口が言うと、村井は苦笑した。
「ーー起業した時のことを聞いていいか?」村井が聞いた。
「なんだ?」
「採用はどうだった?」
「見どころのある奴を選んだつもりだけど、やっぱり欠点はあるもんだよ。起業したばかりなんて、人一人雇えればいい方だもんな」
「そうか、どこも一緒だな。どうだ?今夜三人で食事にいかないか?」
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