次回作とか色々

心中させてくれ
心中させてくれよ

例えば
憧れていた人とおなじ服を買って着てみたことがある。憧れていた人は僕より背丈が小さくて、それなのに僕はそのひとと多分同じサイズのものを買ってしまったから、僕の身体には合わなくて

それは、おそらく孤独に近いことだと思う。

死ぬの時は必ず僕たちは自分一人で死ななくてはならなくて、
僕の場合、死ぬ時はきっと自殺なんだと思う。

演劇がとても好きで、きっとそれは愛憎に近いものなのだろうけど、僕は演劇が好きで。

人間の状態としては、「死ぬ」「生きる」「演劇する」の3つだと疑っていない。大抵の人が3つ目の選択肢を知らないだけだと思っている。
そして大抵のひとが迷わずに生きることを選び、そして自然に死んでいくのだろうと思う。

病気でもう助からないと言われた父の手足が動かなくなり、実家の介護用ベッドでずっと寝ている。このまま死んでいくのだろうと思う。
演劇にはずっと縁のなかった人で、一人息子が演劇を始めていなかったら本当に演劇に縁のないまま死んでいったのだろうと思う。

そして3つ目の選択肢を知りながら、生きることを選ぶひともいることも知っている。
演劇を辞めた人たちのことは、全員ちょっとずつ恨んでいる。

そして、生きるということにそれほど頓着しない僕が、生物学的な生命活動の継続という定義の範疇に収まるただ一つの方法が演劇だ。
今でもそれはそう。

それでも僕はどうしても生きていて、それは例えば僕がそこそこの大学をまあ平均くらいの成績で卒業したこととか。それでいま会社員として仕事をしていることとか。

僕はエクセルにちょっと詳しくて、それは僕がその「生きる」の部分を遂行する上で身についた能力なんだけど、比較的体育会系の職場だからそのことが重宝されることがあって、その時に生きていることについてそれ以上でも以下でもない感動があったりするんだけど、

そんな時に、
またひとり3つ目の選択肢を捨てて生きることを選んだ人がいて、
僕は職場のトイレでちょっとだけ吐いた。

「演劇する」か「死ぬ」かでありたい。

『白夜の帳』という次回作では大体そんなことを書く予定です。太宰治の『駈込み訴え』という作品を原案に据えているので、青空文庫とかで読んでから来ていただけると、まあ楽しめたり、楽しめなかったり、それは皆さんと僕次第なのでなんとも言いませんがまあそんな感じだと思います。

ぶっ殺してくれ。

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