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生きるスピードを落とす重要性【「わかる」とは何か】

みんなスピードにとりつかれているのではないでしょうか。
タイムパフォーマンスを上げるために動画を倍速視聴したり、マルチタスクを推奨し同時に複数の物事を進め気持ち良く終わらせようとする人がいます。
過情報化社会の荒波を生き抜くためには少しの無駄もあってはならない、とばかりに時間を短縮し、取りこぼしの無いよう情報をかき集める人がいます。
それが幸せな状態かどうかはもはや本人もわからないのでしょう。
それでも「やらなければならない」とか「情報を逃してしまっては損をする」と荒波を必死に泳ぎ続けています。
この社会という海は、砂浜で遊ぶ人がいたり、海をぼーっと眺める人がいたり、釣りをする人がいて、荒波を泳ぐ人は全体に比べてわずかな人数しかいないのではないでしょうか。
それなのに泳いでいる当人にとっては目の前の荒波を乗り越えるのに必死で、この海全体がどんな状態なのか、他にどんな人がいるのかなんて気にしてなんかいられません。そして、荒波を泳ぎ続けている当人は、自分自身に少し酔っているように感じます。

今回はスピード偏重社会の弊害について「即答する冷たさ」と「わかるって何?」の2点から考えていきます。

■即答する冷たさ

スピードを上げると人は冷たくなります。
これまで見えていたものが見えなくなりますし、答えを出すことを優先するため早押しクイズのように全部聞き終わる前に回答を叫んでしまいます。

『正欲』(監督 岸善幸、脚本 港岳彦)の感想でも、「特殊性癖の映画」や「多様性についての映画」と表層の感想を書いている人がいましたが、真意はもっと深いところにあると感じました。
※ 映画『正欲』は早押しクイズではなく巨大迷路である

『君と宇宙を歩くために』(作者 泥ノ田犬彦)の感想でも、登場人物に対して「発達障害」「自閉症スペクトラム障害」と断定する人がいましたが、作中にそのような説明は今のところ存在していません。
(そして僕はヤンキー高校生の小林くんにこの知識が無かったから、つまり過情報化社会の荒波を泳ぐ人ではないから、宇野くんと対等に向き合えたのだと思うのです)
※ 『君と宇宙を歩くために』僕らが奇跡的存在であると教えてくれた

断片的な情報や表層の情報を見ただけで、何かの特性を抜き出して押し付け「あなたはアセクシャルです」「あなたは発達障害です」と断定する行為は優しいでしょうか。
急いでカテゴライズすることに必死で、その人自身をしっかり見ていないような気がします。
それよりも「どんなことがあってもあなたはあなたです」と、何も答えになっていない言葉の方が、すごく温かみを感じます。
人は、早押しクイズの出題のために情報を発露しているのではありません。
それなのに過情報化社会の荒波を必死に泳いでいる人にとっては、いち早くカテゴライズして何者かを断定せずにはいられないのでしょう。
カテゴリーに無理矢理当てはめたあとは、勝手に満足してほったらかしにしてしまいます。

そして「冷たさ」以上に危険だと思われるのは、「わかることが出来る」という思い込みだと感じるのです。

■わかるって何?

僕は以前から、「何かをわかるってどういうことだろう」「人はわかることが出来るのだろうか」という疑問を抱いています。
特に科学については浅学ということもありますが、見聞きした情報が合ってるか間違ってるかを判別することなどそもそも出来るのだろうか、と考えています。
例えば福島第一原発の処理水を海洋放出することが絶対安全なのかどうか、僕にはわかりません。
安全という人もいれば、環境負荷が高いという人もいます。
今後30年以上ずっと処理水を海洋放出し続けることでどのようになるかは、30年経たないとわからないと思いますし、調査するにしても範囲が広大で内容も多岐にわたるはずです。これらを「わかる」ことなどそもそも出来るのでしょうか。

もっと卑近な例で言うと、漫画新連載の序盤で痛烈に批判する読者はどうでしょうか。
今後どのような展開になるかは作者と編集者にしかわからないものなのに、その読者は序盤の数話(ひどい時は1話目の数ページで)その作品のつまらなさがわかってしまうのです。
自身の趣味嗜好と合うか合わないか、読み続けるだけの精神力が持つか、などはわかるでしょう。自分の感覚の問題なので。
ですが「つまらない作品だ」とカテゴライズしてわかると思い込むのはあまりにももったいない気がします。

過情報化社会の荒波を泳いでいると「わかる」スピードも要求されてしまうのでしょうか。
そのスピードのせいで本当はおもしろい何かを取り逃してしまう可能性もあるような気がします。
それだけならまだしも、稚拙な判断のせいで僕たちの子孫に取り返しのつかない負の遺産を残してしまっている可能性もあるのです。

■まとめ

過情報化社会はそもそも異常です。
人類史上これほどまでに文字や映像を浴び続けたことは一度も存在しません。
過剰な情報を浴びたことで、僕たちは利口になったと勘違いしているのではないでしょうか。
複雑に絡み合った問題に対し、すぐに回答を出せると思い上がってしまったのではないでしょうか。
人の幸福や心について丁寧に大切に対話を積み重ねていくところを、粗雑にカテゴライズすることを優先していませんか?
「あなたは○○です」と断定されて気分が良いでしょうか。
「私のことをまだ何も知らないくせに」と思わないでしょうか。
その粗雑な断定により、大切な関係性を失ってしまったのではないでしょうか。

「わかる」という思い込みも、そのせいで重大な何かを引き起こしているのではないでしょうか。
そしてそれは、現時点では誰にも絶対にわからないことなのかも知れません。

今必要なのは、過情報化社会の荒波を泳ぐのを一旦やめて砂浜に戻ることなのかも知れません。
周りにどんな人たちがいて、何をし、どのように感じているのかを見たり聞いたりすることなのかも知れません。
一見無駄に感じるかも知れませんが、無駄かどうかを「わかる」ことなどそもそも出来ないのです。

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