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映画『ニトラム』がこの社会の絶望を掻きむしる

1996年4月28日日曜日。タスマニア島、ポート・アーサーで無差別銃乱射事件が発生。死者35人、負傷者15人。当時28歳の単独犯の動機が不明瞭であることも拍車をかけ、新時代のテロリズムの恐怖に全世界が騒然となった。
(公式サイトより引用)
http://www.cetera.co.jp/nitram/

言うまでもなくこの社会は生きるに値しない。
弱者は搾取され続けるし、強者は富み続ける。
画一的なルールを強いられ代替可能な成員である僕らは社会の中に閉じ込められ、家畜化されている。
長い間叫ばれ続けている社会的な出来事や解決する気もない山積されている問題を見れば明らかだろう。

「この世界(宇宙も含める全体)」は素晴らしく生きる価値がある。だが当然のごとく「この世界」は人が生きやすいようには出来てない。
良い人は突然死に、悪人が幸福に生きる。説明不能な美しさに満ちていて、絶望させるほどの精緻さと凄まじさで宇宙の星々は進行している。

本作は、動機不明な無差別大量殺人者の青年を主人公に、その日までを描いた作品だ。
以下ネタバレを含む。



映画から受けた印象をわかりやすく書く。
(1) うまく社会を生きられない青年がいる。母親は社会を生きろと強要し、父親は自由に生きろと青年の人格を認める。
(2) 青年は「この世界」の素晴らしさを共有できる資産家の女性と出会い親密になる。
(3) 資産家の女性と海外旅行に行く途中、青年のせいで事故を起こし女性が死ぬ。
(4) 父親が青年のために購入しようとしていた家を老夫婦に先に購入されてしまい、それを苦に父親が自殺する。
(5) 「この世界」の素晴らしさを共有し社会を共に生きてくれる存在を失った青年は、銃を手に社会を捨てる。


この作品の母親や、青年をバカにする若者、青年を嫌う学校の先生など、社会に管理され生きることを苦とも思わないような人たちは、難なく「この社会」を生きられる。
資産家の女性や父親のように、「この世界」のスゴさに撃ち抜かれつつ、あえて「この社会」を生きているフリをしている人たちも、「この世界」と「この社会」を行き来することで「この社会」に馴染む。
だが青年だけが、「この社会」を否定し続けている。
なので大切な二人を喪って以降、彼の周りに人がいるかどうかに関係無く、彼は常に孤立している。

■ 何人犠牲になろうとも、この社会はくだらない

映画の最後に、この事件により銃規制が厳しくなるも、事件以前よりも大量の銃が扱われるようになったというメッセージが流れる。
このメッセージひとつ取ってもいかにこの社会が終わっているか体感できるだろう。

いつどこで誰が理由もなく大量に殺傷出来ようとも、それに対して決定的な解決などしない。
同じように、戦争兵器は売られ続けるし、環境破壊は止まらないし、自殺者と変死者も減らない。
「人の命は何よりも尊い」と叫ばれる時の「人」とは大金持ちのことだけを指すと誰もが分かってる。

その意味でこの映画は大変危険だ。
漠然と社会に対して生きづらさを感じている人たちが「この社会」は捨てても良いんだと気付いてしまう可能性がある。
「この社会」を管理し弱者から搾取し続ける大金持ちは、弱者がいくら死のうともなんとも思わない。
弱者だけが理不尽に死に続ける。

どこぞの大統領の無能さを笑っていると、同じような構図でこの社会から自らの命や尊厳を奪われるだろう。

本作は今の時代を強烈なまでにうがつ作品だ。

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