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『ももさんと7人のパパゲーノ』から過剰適応化社会をやり過ごす方法を学ぶ

社会は生きるに値しない。

スマホを開けば暴力的なまでに強引に流れ込んでくる情報の数々。
自分とはまったくの無関係な人々の怨嗟や、目を覆いたくなるほど苛烈ないじめや、人間の行いとは思えないほどの破壊などなど、この社会はとうの昔にまともには生きられなくなっているのだと感じます。
そんな過剰なまでに情報化された社会をどうやり過ごすか。
NHKドラマ『ももさんと7人のパパゲーノ』を見た感想とともに改めて考えてみたいと思います。
僕からのメッセージはとても単純です。
「社会を生きるな 世界を生きよ」

以下ネタバレを含みます。


■ ドラマのあらすじ

(公式サイトより抜粋)
ももさんには、これまで誰にも言わなかった言葉がある。
「死にたい」。
ある夏、ひょんなことから旅に出たももさん。
それぞれに生きづらさと折り合う7人と出会い―。
「死にたい」自分を肯定していく、1週間の物語。

【パパゲーノとは】
死にたい気持ちを抱えながらも
死ぬ以外の選択をしている人々のこと

「もも」という名前は、NHKが運営するサイト「自殺と向き合う」に、日々寄せられる「死にたい」「生きるのがつらい」という投稿の中で、最も多く使われるニックネーム。
(抜粋終わり)



もも(伊藤沙莉)は周囲からはまともに見られていますが、社会のノリがあまり肌に合わない25歳の会社員です。
自殺願望を抱く人たちの過酷さに比べて自分はそこまで大変じゃないと、「死にたい」と周囲に言えずにいます。代わりに足の甲をカッターで切ってやり過ごして生きています。
ある日出勤途中で駅のベンチから動けなくなってしまったももは会社を休みます。
生きるのが上手い人と自分との違いは何か。
ももはSNSで「しんどいなぁって思った時、皆どうやってつらさと付き合ってるんでしょうか。楽しい事って見つけられるんですかね。」とDMを募集し話を聞きに行く旅に出ました。

元同級生の玲(山崎紘菜)。
自分がなんだかわからない雄太(染谷将太)。
トランペットが上達しない吹奏楽部の女子高生(中島セナ)。
貧乏で歳を取ってることを嘆くコンビニ店勤務のおじさん(平原テツ)。
仕事が苦しいけど家族のために仕事にしがみつかなければ生きていけないというジレンマを持つサラリーマン(野間口徹)。
いろんな人と出会うことでももに心境の変化が訪れました。


■ ドラマの感想

とても丁寧に作られたドラマです。
構成や登場人物たちの配置がとてもわかりやすく、ももや雄太に感情移入しやすくなるよう細やかな演出がなされています。もちろん俳優のみなさんのすごさも相乗効果になっています。
ももの彼氏(橋本淳)はすごくくだらない奴だし、友人は「死にたい奴は焼肉食わない」などと言えるような鈍感な奴です。
「死にたい」と思う人物に寄り添いつつ、尊敬できる人物とそうでない人物を明確に描くことで視聴者にヒントを提示しています。

彼氏も友人もいわゆる良い人ではあるところにこの社会の複雑さが表れています。
良い人だけどつまらないしうざったい。上から目線で諭そうとしてくる。ももの真剣な悩みを軽んじる。自傷行為をファッションと決めつける。
とてもじゃないけど尊敬できません。
一方で、競輪に誘う女性(藤谷理子)は生きるのが上手くももの気持ちを軽くしてくれました。
ちょっと先に期待してワクワクする。ダメならダメで良い。コンビニ前で駐輪自転車をなぎ倒してしまう不幸から「絶対競輪当たりますよ」とギャンブルに誘う姿はクズ芸人岡野陽一のようでたくましいです。

その後5人のパパゲーノと話をするのですが、元同級生と女子高生の女性2人は尊敬でき、おじさんとサラリーマンの男性2人は尊敬できないという構成です。中世的な雄太がももにとって大切な存在になっていきます。
また競輪の女性とホームレスの男性はパパゲーノではありませんが、ももに重要な示唆を与える役です。
公式サイトにはホームレス(浅野和之)が6人目、占い師(池谷のぶえ)が7人目のパパゲーノと表記されていますが、ドラマを見た限りではこの2人はパパゲーノではありません。

ももの彼氏や玲の元同僚など、くだらない男が多いのもこのドラマの特徴です。
彼らは「女性はこうであるべき」というレッテルを貼ってきます。
コンビニ店員のおじさんは若さに価値があると押し付けてきますし、サラリーマンは家族のために仕事で心をすり減らすことが常識だと押し付けてきます。
ももたちを嫌な気分にさせるのは男性が多いのです。
Xジェンダーと思われる雄太に対して彼氏も、雄太にゲイであることを強要します。雄太としては自分の心が女性である時に彼氏でいて欲しいのですが、彼氏は雄太を男として好きなのでしょう。この告白が「自分のことがわからない」というセリフにつながっています。

曜日感覚を大事にしているのもこのドラマの特徴です。
ももは日曜日の夜に彼と言い争い、月曜日の朝会社を休みます。
平日の真ん中である水曜日は疲れるし、月曜日は憂鬱。
でも冒頭の月曜日と、雄太と迎えた月曜日は全然別物です。

冒頭の「死にてー」とラストの「死にてー」は同じ場面であるにも関わらず、視聴者にとっては受け取り方が全くの別物になっているでしょう。
孤独に見えていたももには「死にてー」と言うと「わかるー」と返してくれる人がいたのです。
「でもその前にトイレ行きてー」「わかるー」と死にたさをやり過ごせる人と出会っていたのです。

これからもももには性別の呪いや若さの呪い、月曜の呪いがこびりついてくるでしょう。
でもきっと、雄太と笑いながら「わかるー」と言い合った朝がお守りになってくれるはずです。


■ 「死にたい」を細分化しよう

この項目では「死にたい」について考えていきます。
本作では「死にたい」=自殺ではないとしながらも、ももの「死にたい」という感情をないがしろにせず彼女を構成する一つの大事な要素として描かれています。

東京に住んでいると毎日のように電車の人身事故が起きていて、「そのうちどれぐらい自ら飛び込んでいるのだろう」と悲しい気持ちになります。
我慢に我慢を重ね、「死にたい」とすら言わずに気付くと自殺している人たちがいます。
せめて「死にたい」と気軽に言い合える環境があればと願います。
冗談ではない、でも本気に受け取られたくもない。
その難しさがドラマ冒頭の彼氏との言い争いですね。

「死にたい」の解決方法は「死」ではありません。
そもそも死んでしまったらもうやり直せません。
自殺したいわけではなく、今「死にたい」と感じていることを知って欲しい。
この場合は「共感」「承認」が解決の糸口になるでしょう。

日曜日の夜が怖く、月曜日の朝になると動けなくなる。
この場合は学校や仕事を遠ざけることで一時的にやり過ごすことができるでしょう。

「死にたい」は「まともな生」の比重が大きすぎるがゆえの反動、という面もあるでしょう。
昨日までのようにはもう生きられない。そのような感情が「死にたい」に込められている場合もあるのではないでしょうか。

以上のように、「死にたい」の全てを表記することは不可能です。
そもそも人の感情は表記不能です。
ですが近い言葉や雰囲気が合致する言葉に置き換えることは可能です。
例えば「一日の多くの時間をその人を想像することについ使ってしまったり、その人を笑顔にするための方法を編み出そうと努力したりする感情」を強引に「好き」という単語に詰め込むように。
あなたの「好き」が他の誰とも同じでは無いのと一緒で、誰かの「死にたい」もその人だけのものであり、誰にも共有不可能です。でも「共感」「承認」はできます。
同じ「死にたい」じゃないけど「わかるー」と笑い合ったり、「死にたい」という感情を抱いているその人そのものを認めることは出来るはずです。

そもそも「死にたい」と言う感情を抱くのは異常でしょうか。
ももの彼氏や玲の元同僚が正常で、ももや雄太や玲が異常なのでしょうか。
この社会は正常ですか?


■ 社会を生きるな 世界を生きよ

ももに重要な示唆を与える人物が2人登場しました。
競輪に誘う女性とホームレスの男性です。
どちらもこの社会を生きていないように見えます。
女性の方は会社をさぼって競輪して酒を飲んだり、少し先のワクワクを優先するしたたかさを持っています。
ホームレス男性の方は働きたくなったら働くが、そもそも社会のルールというのは本能(感情)ではなく理性で作り上げたものだから生きていくこととは合致しない面もある、という考え方のようです。

この2人はSNSの募集とは無関係で死にたいわけでもつらいわけでも無いのでパパゲーノではありません。
効率的に生きていないように見える2人ですが、とても楽しそうです。
逆に社会に縛られているコンビニおじさんやサラリーマンは表情が暗く感情を無くしているように見えてつらそうです。

もうお分かりですね。
この社会は元々クソであり生きるに値しません。
このクソ社会をまともぶって生きられる方が狂っているのです。
生きるのが上手い人はまともなフリをしつつ見えないところで本心のまま生きられるスペースに没入します。
クソ社会に過剰適応することが普通だと思い込んでいる人たちは感情がぶっ壊れているので、ももや玲を追い込んで自分が正しいのだと自己洗脳を強化し、人であることを辞めてロボット化します。

見方を変えるとこのドラマは、ロボット人間達が営む狂った社会で、人としての感情を確保したままそれでも生きていくにはどうしたらいいか、という問題提起ドラマでもあります。
その答えが「社会を生きない」です。
ロボット人間として生きていける人たちはそのままに、ロボット化せずやり過ごす。
そして社会の外へ脱出しましょう。
言語化不能な、ルール化不能な、感情が弾むような、そんな場所へ。
この世界は予測不能、理解不能、共有不能です。
細胞内の核から宇宙の最果てまで、この世界の全てはわけがわかりません。ただそのようになっているだけです。
そんな中にある極小のこの社会にこだわる必要はありません。
クソ社会を生きるな。豊潤な世界を生きよ。


■ まとめ

僕自身はパパゲーノでもなんでもなく、日々楽しく生きてます。
それは上記のように社会の縛りから脱出し、息が出来る場所をいろんなところに作っているからです。
そしてその場所を出て社会を生きてあげてます。そしてまた自分の場所へ帰る。
クソ社会と気付いてしまったら、そこで狂わず生きることなど不可能です。
感情を押し殺してまで生きる必要はありません。
まとめです。

感情を優先させる。
全ては表記不能。
クソ社会に過剰適応しない。

感情も肉体も死なせず、言葉に押し込めようとせず、社会の外を本来の場所として形成する。

最後に。
このような素晴らしいドラマを作っていただいたみなさんと関わったみなさんに最大限の敬意を表します。
そしてこの記事がつらさを抱えている多くの人たちにとって何かのきっかけになりますように。

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