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交換、贈与、そして喜捨へ (1/4)

年末年始は贈り物の多い季節だ。習慣としては徐々に薄れつつあるけども、お歳暮であったり、お年玉であったりと物を贈る機会が見られる。こうした物を贈ること、贈与(gift)はなぜ行われるのだろうか。贈り物をすることで、人は何をしようとしているのだろうか。

ここからやや長きにわたって、贈与とは何か、贈与とよく対比される交換とは何かを考えていく。そして交換でも贈与でもない、喜捨という概念の可能性を拓いていきたい。

贈与とその相手

まず、贈り物は誰に対しても行われるのではない。贈り手(寄贈者)は特定の誰かに贈りたいのだ。贈与には日頃の感謝を伝えるだとか、何かを依頼するだとかいった何らかの思い、意図が伴っている。贈り物をすることによって、人はこうしたコミュニケーションを円滑に進めようとする。贈与では単に物の受け渡しが行われるわけではない。贈与は人と人とのコミュニケーションにおいて行われ、何らかの思いが伴っている。よって、贈り手は自分の人間関係のなかから、特定の目的のコミュニケーションを行いたい相手を選び、贈り物をする

友人の誕生日にプレゼントを贈るとしよう。私は友人にこそプレゼントを贈りたいのだ。誰かがそのプレゼントを欲しいと言ったとしても、友人以外の人に贈ってしまっては、この贈与はまったく意味が変わってしまう。そして私は単に友人に物を受け渡したいわけではない。贈り物をすることによって、私が友人と関係していることを祝い、友人の存在に感謝を伝えたいのだ。

贈与の相手、受け手(受贈者)の特定性。この特定性の話をまず出したのは、もう一つの物の受け渡しのパターンである交換(exchange)と比較したいからだ。例えばスーパーマーケットで買い物をするとしよう。レジで商品の代金としてお金を渡せば、商品が受け渡される。これは贈与ではない。商品の受け渡しを行うレジの店員と私の間には、何らかの人間関係は必要ない。相手は機械(自動販売機)であってもよい。店員から見ても、交換において必要なのは私がお金を持っているかどうかである。交換においては、人間関係のうちで何らかの思いが伴うことは必要ない。もちろん、レジの店員に「ありがとう」など言ったほうがよいが、それがなければ交換が交換であるポイントが失われるわけではない。

貨幣による交換であれ物々交換であれ、交換では物と物が受け渡され、交換される。これに対して、贈与では物が一方的に渡されているように見える。物という物質的なレベルからはそう見えるだろう。しかし贈与では単に物が受け渡されているだけではないのだった。贈与は返礼を生む、というのが贈与のポイントだ。贈与の受け手はお返しをすることを求められる。お返しをしない場合、後ろ指をさされる、すなわち道徳的な非難を受ける。あからさまに批判を受けないとしても、次なる贈与の対象から外れていく。贈与のネットワークから除外されていくわけだ。返礼の義務はなかなか不思議な事態だ。贈与を行うのは贈り手の意思だ。贈り手は自分が贈り物に乗せて思いを伝えたいがゆえに、贈り物をする。しかし受け手には返礼の義務が生じる。悪しく言えば、贈り物が一方的に贈られてきたのに、受け取ってしまうと返礼の義務が勝手に生じる。とはいえ、受け取らないということは贈り手からの贈与を通じたコミュニケーションを拒絶することになってしまう。

交換においては、贈与の返礼の義務のようなものは発生しない。交換では、物を交換してしまえば終わりだ。交換を行ったからといって、相手とまた次も交換しなければならない義務はない。同じような交換を別の人としなければならない義務もない。

モースと贈与の三つの義務

贈与と交換を対比させて、単に物の受け渡しに還元されない贈与の姿を見てきた。ここで贈与に関する有名な議論を参照するとしよう。20世紀前半に活躍したフランスの社会学者マルセル・モースは、1924年に『贈与論』という有名な本を出している。この本でモースは、北米大陸のネイティブアメリカンや、南太平洋諸国の人々について書かれた文化人類学的論考を参照しながら、贈与について論じている。

モースによれば、贈与を特徴づけるのは次の三つの義務だ。(1)贈与する義務、(2)贈与を受け取る義務、(3)返礼の義務。こうした贈与の義務はモースが議論の対象とした文明化以前の社会において明らかだ。私たちの現在の社会では、これらの義務は薄れてはいるけども、道徳的規範の中に色濃く残っている。

(1)贈与する義務。贈り物もできないような人は、現在でもケチな人、ちょっと常識がない人と扱われかねない。然るべき時には(仲の良い人の誕生日だとか、何かしてもらったときだとか、相手の家に招かれたときだとか)、贈り物をするのがマナー、礼儀、道徳的プロトコルだとされている。モースの本にあるネイティブアメリカンの事例では、贈り物をしない人は自分の地位を保てない。贈り物をするということは、それだけ自分に余裕があることを意味する。その余裕が、自分の地位、権力の証となる。

(2)贈与を受け取る義務。贈り物を受け取らないのは、現在でも非礼な人とされる。受け取らないということは、相手とのコミュニケーションを拒絶することとなる。逆に言えば、受け取ってしまうと相手との関係が深まってしまうということでもある。別に関係を継続したくない相手や、なにか裏がある場合は、贈り物を受け取らないことによって、コミュニケーションを拒絶する意思を示す。モースが挙げた南太平洋の人々の事例では、受け取りを拒否することは、贈与者との結びつきと交わりを拒むことであり、戦いを宣言するに等しい。宣戦布告である。

(3)返礼の義務。贈り物は贈り手の何らかの思いのもとに行われており、受け手がその思いに応えないのは非礼とされる。返礼は、単に贈り手と受け手が入れ替わって、元の受け手から元の贈り手へ贈り物をする形でもなされる。贈り手の思いが何かの依頼であれば、その依頼をかなえることも返礼だ。さらに、受け手が元の贈り手にではなくて、別の第三者に贈り物をすることが返礼になる場合もある。すなわち、この返礼の義務は一種の負債である。受け手は債務を負ったのであって、元の贈り手に返すなり、別の第三者へ贈るなりして負債を解消しなければならない。モースの事例では、返礼の義務を果たさなければ、受け手は奴隷になってしまう。返礼を行うことができない者はその社会的地位を失い、自由人であることを失う。

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