見出し画像

交換、贈与、そして喜捨へ (2/4)

第1回へ

贈与が成立するための3要件

モースの議論を参照して、贈与には三つの義務があることを見てきた。贈与する義務、贈与を受け取る義務、返礼の義務だ。先に進む前に、贈与を成り立たせる要素、贈与が贈与であるための要件を探っておこう。それにより贈与のように語られながら、実際は贈与ではないと思われるものを見分けておこう。実は今回の全体の話の目的は、贈与とみなされてしまっているものに別の名前を与えて、贈与ではない枠組みで考えることを可能にすることだ。

贈与では贈り手が贈与の意思をもって、自分の物の所有権を特定の相手に渡す。ポイントは三つ。(a)贈り手に贈与の意思がある。(b)贈られるものはもともと贈り手が持っているものである。(c)贈与の相手が存在する。これらのポイントを欠いたものは、ともかくは贈与とみなすことはできない。

(a)贈与の意思の存在。例えば子供がゲーム機を新しく手にしていて、周りの人に対して「もらったんだ」と言っている。その発言は本当だろうか、というときにどうしたら確かめられるだろうか。贈り手とされる人に、贈る意思があったのか(贈ったのか)と聞くだろう。その人が「あげたのではない、貸しただけだ」と言って贈与の意思を否定すれば、ゲーム機は贈り物ではないことが分かる。また道端に落ちているものを、もらったもの、贈与されたものと主張することもできない。それは人が落としたのであって、贈与しようとしたものではない。もしかして捨てたものかもしれないが、だとしても贈与しようしたものでない。

(b)贈与するものは贈り手の所有物であること。これは比較的、自明だろう。自分が所有しているものだからこそ、自分に処分する権利、他人に譲り渡してもよい権利がある。他人のものを勝手に誰かに贈ることはできない。贈与を行うには、その物をいったんは自分が所有してなければならない。ただし贈り物は物品であるとは限らず、サービスや言動でも可能だ。だとしても、それは自分のサービス、言動でなければならない。

(c)贈与の相手の存在。これは実はさほど自明ではない。少なくとも、贈り手が受け手が誰であるかを事前に特定しない形での贈与はありうる。ここでのポイントは、少なくとも受け手が現時点で存在しなければならないということだ。受け手のいない贈与は成り立たない。例えば、過去の人に贈与できるだろうか。私は自分の曾祖父に贈与できるだろうか。無理だ。未来の人に贈ることは可能だろうか。私は自分の曾孫に贈ることはできるだろうか。これも、現時点は無理だ。なぜなら受け手がいないからだ。信託という形では可能だが、それは未来の特定の時点でおいて信託を受けた人が贈与を行うのであって、いま私が生きている現時点ではない。

贈与のようで贈与ではないもの

以上の三つのポイントを踏まえて、贈与であるように語られたりするが、贈与とはみなせないものを挙げておこう。

自然の恵み。私たちの生活に彩りを与えて豊かにしてくれる自然の産物は、自然からの贈り物と称されることがある。これが比喩でしかないことは、だいたい共有されているのではないだろうか。自然は贈与の意思を持つことはない。木は人間に与えるために果実を実らせるのではない。勝手に人間が奪っていくだけだ。また、自然は何かを所有しているわけではない。基本的に、所有権とは私たち人間の間で考えられるものに過ぎない。よって、(a)と(b)を満たしていない。

自分の生命。自分の生命は自分のものだから好きに扱ってよいのだとする意見に対して、生命は両親、果ては祖先からの贈り物だとする意見がある。贈り物だから粗末に扱ってはならない。返礼の義務があるのだと。ひとまず両親は子を産む意思があったのだから、(a)は満たすと言ってよいだろう。では(b)はどうか。微妙な点は多くあるが、ともかくは生命は両親の所有物ではない。したがってそれは贈ることはできない。また(c)について、贈与であったとしても、そもそも受け手が存在しない。生命を受け取ることによって初めて存在するようになるのであり、受け取る前には存在しない。よって、(b)と(c)を満たしていない。ちなみにこの話は、生命は自分の所有物であることを否定しようとするがゆえに、それを両親などの所有物とみなすという、どこか本末転倒な話だと思う。

文化。私たちが前の世代から受け継いでいる文化や、技術、知識といったものも、前の世代からの贈り物とされることがある。そしてたいてい、贈り物であると言いたいポイントは、それゆえに私たちは文化を大切にしなければならないという贈与を受け取る義務と、私たちも次の世代に受け継いでいかなければならないという返礼の義務を訴えることだ。だがこれも贈与ではない。この場合は、(a)も(b)も(c)も満たさないことは容易に分かるだろう。

贈与のネットワークに必要なもの

ここまで贈与を巡って発生する三つの義務である(1)贈与する義務、(2)贈与を受け取る義務、(3)返礼の義務と、贈与を成立させる三つの要素(a)贈与の意思の存在、(b)贈り物の所有、(c)贈与の相手の存在を見てきた。ここで再び、贈与と交換の比較に戻ろう。

贈与には返礼の義務が伴うのだった。したがって贈与は、別の贈与を生む。贈り手と受け手からなる贈与のネットワークを形成する。受け手が元の贈り手に返礼すれば、このネットワークはノード2つ、エッジ2つでサイクルを形成して閉じる。だが贈与の返礼はもともとの贈り手に対してしなければならないわけではない。原理的には、贈与のネットワークはどこまでも開かれていることがありうる。

こうした贈与ネットワークに参加したいとしたら、何が必要だろうか。それは人間関係(と贈るべき物)だ。贈与したい相手のいない人、返礼できる相手のいない人は贈与ネットワークを形成できない。自分の人間関係の中に、贈与の相手になるような人がいるのか。すなわち、贈与ネットワークに必要なのは社会関係資本である。ありていに言えば、コミュ障なら贈与ネットワークに参加できない、あるいは贈与ネットワークを自分というノードから先に延長できない。贈与は社会関係資本を必要とする。贈与ネットワークを延長すること、すなわち返礼を行うことは、社会関係資本を用いて行われる。つまり、贈与を受け取ることによって生まれる返礼という負債は、社会関係資本によって返済される。

社会関係資本を持たない人に贈与が行われるとどうなるだろうか。例えば、難民孤児などは社会関係資本がとても少ない。贈与という形で難民孤児に救援が行われると、この孤児はそれをもって返礼すべき社会関係資本を持っていない。すなわち、返礼の義務、負債はいつまでも残り続けることになる。その負債に押しつぶされずに社会関係資本を構築し、やがて返済できればよい。しかしすべてがそうなるとは限らない。負債に押しつぶされ、自分は援助を受けることが当然であると思い込んだり、自分は援助を受けなければならない無力な存在であると卑下してしまう。

特に受け手の観点から見れば、贈与は一方的に贈り手からやってくるが、受け取る義務や返礼の義務がある。一方的に義務を負わされ、自分の社会関係資本をもって返済することを迫られる。難民孤児のケースは極端としても、社会関係資本の少ない人に対して贈与を行うのは、可処分所得の少ない人に多大な借金を負わせるような、ある種の暴力的行為である。そして贈り手はたいてい、社会関係資本の多い人が多く(だからこそ贈与をしようとしている)、社会関係資本の少ない人に贈与を行う危険性について無頓着である。

突然だが贈与はドイツ語ではGabeという。これは与えるgeben(英語でgive)の名詞形だ。同じくgebenから派生した語に、Giftがある。これは生命体に作用して病気や死をもたらすもの、すなわちを意味する。同じ意味のgeben/giveから派生して、Giftは英語では贈与を、ドイツ語では毒を意味している。贈り物によって相手に返礼の義務を負わせることは、毒を仕込むことかもしれない。

交換のネットワークに必要なもの

さて言葉遊びは置いておくとして、交換についてはどうか。交換とは物と物、あるいは物とお金の交換だ。私たちのいまの社会でメインとなっている交換として、物とお金の交換、すなわち商品貨幣経済を考えよう。交換された物は消費されて無くなってしまうこともあるが、お金の場合はそうではない。お金を対価とする交換では、お金の受け手はそのお金で別の交換を行うことができる。すなわち、お金は交換のネットワークを作る。逆に言うと、お金を介した物の交換ネットワーク、すなわち商品貨幣経済に参加したいなら、何よりもお金を持っていなければならない。

すなわち、贈与ネットワークが社会関係資本を必要とするのに対して、交換ネットワークは金融資本を必要とするのだ。

ここで強調したいのは、むしろ交換ネットワークは金融資本しか必要としないことだ。交換においては、対価があればいい。ありていに言えば、カネさえ持っていればいい。これは海外で買い物をしてみると分かる。言葉が話せなくても、その国の人とまったく人間関係が無くても、お金さえあれば買える。しかも売り手からすれば、相手がお金を持っていなければ、別の人に売ればいい。贈与のように相手を指定することはない。さらに贈与では、共同体や社会において築いてきた人間関係が必要とされる。どこの誰か分からない通りすがりの人は、普通は贈与ネットワークには入れてもらえないのだ。

どういう人間関係を築いているかと関係なくネットワークに参加できる、それが交換ネットワークの利点である。社会関係資本が少なかろうが、コミュ障だろうが、お金による買い物はそんなものは気にしない。ただ必要なのはお金だけだ。贈与ネットワークがウェットな閉鎖系なら交換ネットワークはそうしたドロドロした世界から解放された、ドライな開放系である。

だからこそ商品貨幣経済はここまで広がったのだ。贈与ネットワークは狭く閉じた範囲でしか機能しない。人が人間関係を築ける範囲は、いかにリア充でも限られている。交換ネットワークははるかに広い適用範囲を持っている。むしろ、交換ネットワークは社会関係資本という軛から人々を解き放った先の、自由で開かれたところに成立している。モースは贈与が交換よりもずっと昔に見られると主張したが、それもそのはず。交換は贈与を脱魔術化したものと考えられるかもしれない。

第3回へ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?