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交換、贈与、そして喜捨へ (4/4)

第3回へ

喜捨の現代的読み替え

さて本論の目的は、喜捨の概念を現代化することにあった。喜捨は、神から与えられたものを神に返すことであり、喜捨されたものはその場に居合わせたものに対しても使えるのだった。

まず神という概念は、いまの私たちにとってはもはや遠いものだ。私は神という概念を、社会の外部に置き換えたい。社会の外部とは人間活動の外部であり、自然環境と考えることができるだろう。

すると喜捨は、私たちに馴染み深いものに変わらないだろうか。すなわち、私の財産は究極的には社会の外部、自然環境から得たものである。よってある程度のものは、自然環境に返さなければならない。そうしなければ自然環境が持続しない。自然環境から得て私たちが活動できるであろう以上のものを、自然環境から取りすぎてはならない。取りすぎないだけでなく、返すのだ。これはサステナブルではないリジェネラティブな考え方として、注目されつつあるのではないだろうか。

そして喜捨は社会の外部に対してなされる。だが私たちは社会の外部には出られない。よって喜捨されたものは、誰のものでもないものとして投げ出されるしかない。喜捨されたものは、贈与されたものではない。所有権が贈り手から受け手に譲渡されたのではなくて、喜捨の文字通り、「捨てられた」ものなのだ。喜捨は交換や贈与のようにネットワークを形成することはない。喜捨されたものは捨てられているのだから、誰が拾って活用してもいいのだ。喜捨された場に出くわせば、共同体の外部の人、例えば旅人も使うことができる。喜捨は、拾った人に何かの義務を押し付けたりしない。

まとめると、イスラム教の喜捨という概念を以下のように読み替えて、交換でも贈与でもないものとして用いることができるのではないだろうか。私の持ちえたものは遡っていけば、自然環境など社会の外部からもたらされたものだ。したがってある程度、私は自然環境に返さなければならない。その手段は捨てることだ。そして捨てられたものは、その場にいるものであれば誰もが使うことができる。

ちなみに喜捨という言葉そのものは、仏教用語だ。仏教寺院への寄付のことを言う。しかしここで考える喜捨はザカート、サダカでなければならない。喜捨とは社会の外部へ向かって投げ捨てることだ。決して仏教寺院という特定の団体へ寄付することではない。喜捨は寄付ではない。ここに喜捨をcharityと訳してならない理由がある。charityはラテン語carus(親愛なる者、価値ある者)に由来し、社会関係資本のネットワークの中にある。

まとめ

最後に、贈与と喜捨を比較して要点をまとめたい。そして、現代における喜捨の形として意外なものを一つ取り上げて終わろう。

贈与とは一方的に返礼の義務などを負わせるものであり、社会関係資本を必要とする、適用範囲の狭いものだった。喜捨はどうだろうか。喜捨は、誰かが誰かに負わせるようなものではない。またイスラム教のザカートやサダカでもそうだが、必要以上のものを喜捨するようには求められない。ある程度の資本を持ったものだけが喜捨を求められる。喜捨の対象となるものは典型的には物的資本だが、物的資本には限られない。また適用範囲は限定されない。なにせ場に捨てるだけであるから。

喜捨は贈与ではないから、返礼の義務を負わせることはない。そもそも相手も必要としない。社会関係資本の少ない人でも、その場に居合わせさえすれば対象となる。交換が金融資本のみを必要としたように、喜捨はその場に居合わせることだけを必要とする。ここには贈与のような暴力や毒はない。ただし、せっかく場に捨てられたものだから、困っている人に渡したい。喜捨されたものを適切な人に渡すためには『クルアーン』にもあったように、喜捨管理団体が必要だろう。

まさに社会保障はこうした仕組みだろう。求められるのは、基本的にその場所にいることだけだ。贈与として捉えたのでは、返礼という負債が発生してしまう。そうならないためには、喜捨として捉え直さなければならない。

例えば生活保護が贈与の枠組みで捉えられると、返礼の義務があるものと誰もが捉える。よって、生活保護を受けながら奢侈に見える生活を送るのはきわめて非難の的となる。この返礼の義務の負債は、生活保護受給者を苦しめる。そうではなく、生活保護は喜捨されたものの再分配として見られなければならない。むしろそれは、ベーシックインカムへ近づくだろう。まさにその場にいる(=住民である)ことのみを必要要件とする仕組みだ。

喜捨の意外な例

さて最後に意外な喜捨の形を取りあげておこう。それは、もう今となってはあまり知る人も少ないだろうが、メトロ文庫だ。これは1988年から2019年に渡って東京メトロの地下鉄の駅にあった書棚だ。誰もがいらなくなった本を持ってきてメトロ文庫に置き、誰もが自由に持っていくことができる。つまり、誰もが余剰としてある本をメトロ文庫という場に「捨て」、それは捨てられているものだからその場に居合わせた誰もが持っていくことができる。すぐれて喜捨の仕組みだろう。

文化や知識というのも、贈与ではなくて、メトロ文庫に具現化されるような喜捨の仕組みなのだ。それはその場に捨て置かれている。だからこそ自由に活用され、また場に捨てられる。誰のものでもなく、誰のものでもある。こうした姿は贈与という概念では捉えられない。

さてようやく終わりだ。交換、贈与を経て喜捨という概念にたどり着き、贈与の義務を発生させない形で喜捨という概念を使う道を探った。まだまだ疑問は多くあるだろう。喜捨が持続的な仕組みになりうるのか。果たして喜捨は何の負い目も発生させないのか。喜捨管理団体の存在は、喜捨を結局は管理団体への贈与という形に変質させてしまわないだろうか。ともあれ、本論の目的は喜捨という概念の可能性を拓き、別の見方を導入することであった。

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