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交換、贈与、そして喜捨へ (3/4)

第2回へ

さて贈与と交換を巡る長々として話を経て、ようやく(!)問題を提起するところまで来た。ここからが話の始まりであり、もう終わりでもある。

交換が抱える二つの問題

贈与は一方的で暴力的なものであり、適用範囲の狭い社会関係資本を必要とする。交換は相手を指定しないから任意で非暴力的なものであり、適用範囲の広い金融資本を必要とする。こうして交換を、特に商品貨幣経済を褒め称えて終わりだろうか。だがモースは『贈与論』の後半で、私たちの社会は商品貨幣経済だけであってはならず、贈与を取り戻そうと主張している。商品貨幣経済に何らかの問題や課題を見て、それが贈与によっていくらか解決できると考える人はモースだけでなく多く存在する。

商品貨幣経済の問題を二つ挙げよう。一つは、交換による比較可能性にある。商品とお金の間で交換が成立したということは、それが等価であるということで売り手と買い手が合意したということだ。もちろん権力や過去の経緯などで等価な交換にならないことはある。その場合は、交換を等価でなくしている要素を含んで全体で等価性を考えればよい。特にお金は一般的に適用可能な価値指標として働くから、交換した商品の価値を定量的に表すことになる。すなわち、交換では交換されるものの価値が定量的に明らかになり、他のものと比較可能となる。

しかし何でもかんでも価値を定量化し、比較可能にすればよいわけではない。そのような定量化にそぐわないとされるものは多くある。人間個人に関わるものは多くそうである。人の生命を値付けして比較するのは適切ではない。あなたと私の生命のどちらがどれだけ価値があるのか、という議論を私たちの社会は避ける。身体もそうだ。腎臓を売って対価をもらうこと(腎臓とお金を交換すること)は認められない。感情や思いといったものもそうだろう。

だからこそ、交換ではない物の受け渡しの形態として、私たちは贈与を用いるわけだ。例えば、感謝やお祝いの記しとして贈り物をするとき、その気持ちを定量化して比較するのはマナー違反とされる。あなたでなくもう一人のほうが感謝の量が大きい、など比較するのは無粋だ。贈り物に値札を付けてはならないのは、まさに贈与であって交換ではないからだ。定量化して比較可能としたくないもの、交換の対象としたくないものが私たちにはある。

商品貨幣経済の問題のもう一つは、交換ネットワークに参加するのには金融資本を必要とすること、そのものである。つまりお金が無ければ商品と交換はできない。お金のない人はどうしたいいのだろうか。自給自足で交換せずに生きていければいいが、そんな人は現代では稀だ。生活保護や所得補償などはこうした場面で必要とされる。また、供給量が限られているけども、誰もが必要とするようなものはどうか。お金のある人がすべてを独占していいのか。例えば医療サービスなどがそれに当たる。こうした社会保障は、交換ネットワークの参加条件そのものを準備するものだから、それ自体は商品貨幣経済にはそぐわない。

ということで長かったが、私の立てたい問題は以下だ。たしかに商品貨幣経済には問題がある。しかしそれは、贈与によって対処されるものなのだろうか。交換のほかには贈与しかないのだろうか。見た通り、贈与は一方的に義務を負わせる暴力的なものである。社会関係資本の少ない人には過大な負債を負わせる。しかも適用範囲も狭い。商品貨幣経済の問題に対して、贈与という毒をもって制するしかないのだろうか。

喜捨とは何か

さっそく結論を書いてしまえば、ここで私が考えたいのは、喜捨という概念だ。英訳するとcharity、すなわち寄付になるが、それだとやや言いたいポイントを外れる。喜捨という概念は、あまりにも贈与という概念に汚染されている。喜捨という概念を救い出し、現代に甦せてみたい。

「喜捨」という言葉で私が考えているのは、イスラム教のザカート、サダカのことだ。ザカートとサダカは、ともに「喜捨」と訳される。ザカートは義務的喜捨、サダカは自発的喜捨とも言われる。ザカートは、イスラム教徒であるムスリムが行うべきものと『クルアーン』に定められた5つの行いに含まれる。5つの行いとは、信仰告白、礼拝、喜捨、断食、巡礼だ。自分の財産のうちの一定の割合を他者に分け与えることが定められており、これをザカートと呼ぶ。そして一定の割合以上に自発的に財産を分け与えることを、サダカと呼ぶ。

ザカートは財産の一定割合を強制的に他者に分け与えるので、これはほぼ、所得税や固定資産税のような働きをする。実際、サウジアラビアなどではザカートは税金として徴収され、他者の支援・救済のために用いられる。要は、社会保障の仕組みである。これに対し、サダカはまさに寄付として機能する。

しかし現代のイスラムの社会システムにおける喜捨について論じたいのではない。論じたいのは、この喜捨という概念を支えている、もともとの思想だ。なぜムスリムは自分の財産を喜捨すべきなのだろうか。それは、自分の獲得した財産とは自分のものではなく、神から与えられたものだからだ。したがって、神から与えられたものは神に返さなければならない。とはいえ、すべての財産を返さなければならないわけではない。あくまで、余剰分を返すのだ。

神に返す、といってもどうやって返すのだろうか。人間と神の間のコミュニケーションは(預言者を別にすれば)神から人間への一方向であるから、神に返すことはできず、できることはせいぜい誰のものでもないものとすることである。したがってその財産は誰のでもないのだから、誰が使ってもよい。ならば、困っている人のために使おう、となる。

喜捨の使われ方

『クルアーン』には喜捨(ここではサダカ)の使い道が定められている。

施し〔サダカ〕は,貧者,困窮者,これ(施しの事務)を管理する者,および心が(真理に)傾いてきた者のため,また身代金や負債の救済のため,またアッラーの道のため(に率先して努力する者),また旅人のためのものである。これはアッラーの決定である。アッラーは全知にして英現であられる。

『クルアーン』第9(悔悟)章第60節

面白いことにこの対象者リストには、ムスリム共同体の内部も外部も含まれている。貧者や喜捨管理団体は共同体の内部にあるが、イスラム教に改宗しつつある者(心が傾いてきた者)は外部から内部に入りつつあるし、旅人にいたっては単に通りすがりの、本質的には外部のものだ。

喜捨という概念で取り出したいポイントは二つだ。(i)喜捨は神に向かってなされる。(ii)喜捨されたものは共同体のメンバーに対してだけでなく、単にその場に居合わせた者(旅人)に対しても使われる。

ここまで見て分かるように、喜捨とは神からの贈与への返礼として捉えることもできる。通常の贈与が人を相手としてなされるものであるに対して、喜捨は神を相手としてなされる。ちなみにモースも『贈与論』において、(人への贈与が議論の対象だから当たり前だが)きわめて通りすがりに過ぎないがこの点を述べている。

ただしこの際、先に述べた贈与の三つの義務や、贈与を成立させる三つの要素は喜捨の場合には同様には適用できない。たとえば三つの義務のうち、喜捨で見られるのは贈与を受け取る義務しかない。返礼の義務は誰にもあるわけではない。ザカートであれサダカであれ、すべての人が対象になるわけではない。したがってあまり喜捨を贈与概念の延長で語るのは適切ではない。

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