マガジンのカバー画像

タナカくんと上条毬男

11
25年間付き合ってきた大切なパートナー。タナカくん。 彼には上条毬男というもうひとつの世界がありました。一世風靡したゲイ漫画家で、けれど晩年、その経歴から決別し新しい世界を切り拓… もっと読む
運営しているクリエイター

記事一覧

枕に浮き輪、それからエプロン

今日は命日。 もう4年も経つのにまだいなくなったことを完全には受け入れられない。 ひょっこり帰ってくるような気がするし、週末の朝、ぼんやりしてると「おはよう、お腹すいたよ」ってのっそり起きてくるんじゃないかと思ったりする。 もしタイムマシンがあって、一度だけ好きなときに戻れるとしたら確実に「2020年4月23日の午後10時」。 そしてそのままどんなにグズろうとタナカくんをタクシーに乗せ、慶應病院の救急センターに飛び込んで検査してもらうんだ。 もっと早い時間に行くこともできる

セクシーが苦手だったタナカくん

「セクシー田中さん」の作者が自らの命を絶った…、というニュースを聞いたとき。 そして事後、その理由に関するさまざまな考察を聞いて、そういえばタナカくんも雑誌の編集者に対して不平を漏らすことが多かったよなぁ…、って思った。 ボクも実は同じような気持ちになったことがある。 「ほぼ日」さんで連載をしていたとき、漫画化しないかとかドラマの原作に使わせてもらえないかってオファーがいくつもあったのだけど、打ち合わせをすればするほど気持ちが離れてしまって結局、交渉決裂ってことになった。

ウーピーゴールドバーガーとタナカくん

東京都内であればどこへでも原付で移動していたタナカくん。 1時間とか平気で原付を走らせていた。 大変じゃない? そもそも退屈なんじゃないの…、って聞いたら歌いながらのればあっという間さって笑ってた。 ポルコロッソヘルメットをかぶって乗ってた。 紅の豚のポルコロッソが被ってたようなゴーグルと耳当てのついたヘルメットで、耳がすっぽり隠れるタイプ。 だからカナル型のイアフォンを片方だけして、オキニイリの歌を聴きながら運転するのネ。 聴けば自然と歌が口から飛び出してくる。 つまり、

どの花もそれぞれの願いがあって咲く

どの花もそれぞれの願いがあって咲く。 タナカくんに教えてもらった言葉です。 大佛次郎の残した言葉で、伊丹十三が晩年、この言葉をことあるごとに色紙に書いてたので有名なんだって。 いい言葉だよねぇ…、含蓄がある。 いろんなふうに解釈できてこの言葉を読んで、どういうふうに感じるかでその時々の気持ちがわかるような気がするんだ…、って言っていた。 どんな花にも願いがある。 だから一つひとつの願いに耳を傾けなくちゃいけないんだ。 そう捉えることができるでしょう。 この言葉を教えて

ボクは元気にやってます!

今年のお盆はタナカくんが戻ってきたんじゃないかしら…、って思うほどに気持ちがずっとざわざわしてた。 落ち着かないんですよね。 ソワソワしちゃって。 それで電車にのってタナカくんがひとり暮らしをしていた部屋を見にいったり、好きだったものを作って食べてみたり。 盆明けの朝には珍しくタナカくんが夢に出てきた。 へんてこりんな夢でねぇ…。 尻切れとんぼで目が覚めて、その夜、早く寝たら夢の続きがみれるかしらと思って早く寝たのに続きはみれなかった。 無事に空の向こうに帰ったんだなぁ…

さみしいよぉ…。

タナカくんが逝ってから今日で3年と一ヶ月。 今でもさみしい。 町を歩いていると、一緒に歩いたときのことがふと思い出されて泣きたくなっちゃう。 ひとりで歩いているのがさみしくってネ。 そんなときにはギューッと右手を握りしめて、タナカくんがそこにいるんだって思って気持ちをなぐさめる。 歩くときにはたいていボクの右側にいた。 ボクはちょっとした事故で左側の耳の鼓膜が傾いていて、声や音が聞き取りづらいから騒々しい町を歩くときは右側。 エスカレーターにのるときは、ボクが後ろでずっと

生きてたら59回目の誕生日だったんだよね!

タナカくんがうちに引っ越してきたときに運んできた段ボール箱。徐々に片付けていくね…、って行っていたけど何年経っても一向に片付く気配はなくってずっとそのままだった。 彼が逝ったときに、全部捨てようかと思ったけれど、これも彼の生きた証なんだなぁ…、と思って捨てずにおいた。 でも開けることができなくってネ…。 半年ぐらいはクロゼットの中に片付け、見ないことにしていたのだけど…。 気持ちが落ち着き、毎月一個。 開いて中を整理して、捨てるべきものは捨てお母さんが見ればよろこぶに違いな

タナカくんの娘のハナシ、絵に写真。それから動画

「お父さん」と「パパ」と「娘」 男同士のカップルが互いをどう呼ぶのかはかなり微妙でむつかしい。 「あなた」「おまえ」では絶対にない。 名前で呼ぶのはよそよそしくて、みんないろいろ工夫する。 ボクらの場合は、タナカくんのことを「おとうさん」、タナカくんはボクを「パパ」と呼んでいた。 そう呼びはじめた経緯を主婦と生活社さんの「フムフムニュース」で紹介しました。 部屋で出迎えてくれたのはなんと「フェレット」。 女の子だから娘。ケージから出し、抱きかかえながら、「ただいま…、お

タナカくんとボクの共同作業…、外食産業のマンガ

ゲイ雑誌の連載の仕事を断り、二丁目とほぼ決別したタナカくん。 ちょうどワハハ本舗との関わりができて、パンフレットやポスターの仕事をするようになっていました。 劇団員の人たちからまりおさん、まりおさんって呼ばれてかわいがってもらい、たまに舞台に出たりもしてそれなりにたのしんでいたのだけれど、やっぱりマンガを書きたいという。 絵を描くことと漫画を作ることは別のことなんだかと言うのです。 作画はマンガ作りのほんの一部。 ボクは「ネームを切る」のが好きなんだよネ…、って。 どん

絵師としてのタナカくんを想う…。

今日はタナカくんの月命日。 画家としての彼の最晩年の話をしましょう。 ゲイ漫画家としての活動を40代の半ばですっかりやめてしまって、それからボクと一緒に業務漫画をいくつか描いた。 けれどそれも彼にとってはそれも心から納得できる仕事じゃなかった。 だからしばらく、ほとんど何も描かない時期がありました。 4年ほど前のことでした。 美術展で「月岡芳年」の絵をみて、まるで雷に打たれたようになったのですネ。 絵の前から動かずずっと見続けて、家に帰ってインターネットで彼の作品を探して

上条毬男くんとの出会い

ボクのブログでもFacebookでも、タナカくんとしての話しかしてこなかった。 タナカくんの中のもうひとりの人格はゲイ漫画家の上条毬男。 その世界ではとても有名だった人。 けれど彼が40半ばになった頃、もう上条毬男とは決別しようと思うんだ…、って言ってゲイ漫画家としての活動を一切やめた。 理由はいろいろあったんですネ。 やめた気持ちがよくわかったから、絵かきとしての新しい仕事をずっとサポートしてきた。 叶わぬ夢もたくさんあって、だからずっとタナカくんとしての話だけをしてきた。