【上田】別所温泉・上松や(二) ラスボスは絶品馬刺し
信州の別所温泉・上松やを利用しはじめた、ごく初期の頃。
当時、籍を入れる前の、現在の夫とそのご両親とともに宿泊したものだが、信州の馬刺しが別に注文できるというので、予約時にその旨を伝えると、
「四人前はよした方が良いですよ。二人前くらいで丁度良いかと」
商売っ気がないなあ、と思いつつ、アドバイスに従って二人前に減らしたが、いざ夕食の膳が出てきてからは、忠告をしてくれたスタッフさんに思わず感謝した。
とにかく、料理の量が多い。
特に年配である義父母にはとても食べ切れるものではなく、
「はい、これ食べて」
「俺の小鉢、やるよ」
義父母からせっせと追加料理が飛んでくるので、わたしと彼氏(当時)は胃袋を引き締めて、夕食に挑戦する覚悟を決めた。
なお、義父は料理自慢で、よく義実家でご飯を振る舞ってくれる時の口癖は、今も昔も、
「のどかさん、腹すいてないかい?」
だ。
ダイエットの敵ではあるが、籍を入れるから仲の良い義実家にめぐりあえたわたしは、すごく恵まれていると思う。
義父母には、少しでも多くの種類を味わうために、各種料理まんべんなく、わずかに箸をつけるにとどめてもらい、残りを若いわたし達で胃袋へ吸い込む。
二人とも揃って大食いであることに、感謝した。
などと、量の多さばかりに注目してしまったが、味の方は、もう最高である。そればかりか、見た目の華やかさも手を抜いていない。
前菜には、いつも『季節の七久里籠盛』と銘打った、七種類の料理がカゴに盛られて出てくる。
その彩り、おしゃれな盛り付け、一口で味わえる可愛さ、まず女性客で喜ばない者はいないと思う。
それらは、信州サーモンの奉書巻だったり、鮎や虹鱒の土佐酢漬けだったり、スモークサーモンの押し寿司だったりする。
名前の通り、季節ごとに変えているのだろう。上記のメンバーは定番の品として、他の配役が、来る度に微妙に違う。信州そばの稲荷巻だったり、胡桃豆腐だったり、牛肉かあるいは桜肉の時雨煮だったり。
まるで、何度も見に行った演劇の、配役や演出が変化するバージョン違いを楽しむような感覚だ。
時には、上松やの会長さんがみずから育てた野菜が、味噌汁の具として出てくることもある。
さて、話は義父母らと共に初めて訪れた夕食の席へもどるが……。
義父母からの「これ食べて」攻撃をことごとく受けて立ち、耐え忍んだわたし達二人。
最後に残ったのは、追加注文した馬刺しの二皿である。
濃厚な色合い、余分な脂肪のない、まるで鰹の刺身のような深い赤身。
絶対にヘルシーで、さっぱりしていて、全料理の締めにふさわしいではないか。
濃淡の違う二種類の刺身醤油もまた、とろんとした色合いで、馬刺しと出会った瞬間の、味の大躍進を待っているかのようだ。
本来、極楽への昇天となるべきこの追加メニューは、地獄の行軍へと反転した。
──人は誰しも、胃袋にブラックホールを飼うべきである 坂井のどか(21世紀の平凡な大食漢)
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