タナトフォビアと「閉じ込められ症候群」~難病ALSを考える~

さて、占星術師で作家の酒井日香です。

11月生まれなものですから、あとふたつきほどで誕生日となり、そうするとアラフィフ最後の「49歳」ということになりまして、もう50歳か!と愕然とするんですが、60歳になっても70歳になっても、小説を描いてラノベイラストを描いて、いろんな勉強して、中二病のまま死ねたらなと思うんですが、別にいいですよねそういうことしてる「恥ずかしい老人」でもw

しかし、50歳の自分が来るなんて、予想さえしておりませんでした。50ともなりますと、いつなんどきどのような病になるやらわかりません。これまでより「死」が身近になり、超次元占星術の初めての星占い手帳を9月の頭に脱稿した直後は、疲労から来るメンタル症状なのか、不安神経症の症状がずいぶんとひどく出て、生きたまま地獄をさまようような、そんな心持ちになりました。

よほど精神科に駆け込もうかとも思ったのですが、いやいや待てよと。死の恐怖を克服するって病院の問題ではないだろと。ここはやはり哲学でどうにかせんといかんことだよなと思いましてですね、あらためて我々、心気症患者、ヒポコンデリー持ち、死が怖くて怖くて1秒もいられないほどのメンタル患者は、どう安心を見出していったらいいのか考えてみようと。

タナトフォビアを克服するのに以外と役立っているのが、「科学」ですね。私の身近な老人たち、とくに男性は、死後の話をしようものならむきになって「死んだら無」「死んだら何もない」「死が怖いのなど当たり前なのだから考えたって無意味」「くだらないこと考えてないで精一杯生きろ」などと申します。いやいや、それは無理。だって怖いもん。死の恐怖を前に、明日処刑されるわが身なのに、それ自体を考えるななどと言われたって怖いもんは怖い。断じて同意できません。

それに、こういう方々の大好きな「科学」とやらだってね、紀元前の、古代ギリシャ以前から偉大な哲学者たちが喧々諤々、考え続けて、そして中世の錬金術者や占星術者といった神秘主義者が考え続けて、そしてそれが近代科学からニュートン力学を経てとうとう量子力学に到達した現代でさえ、

「こころと肉体の関連性」

「こころがなぜ存在するのか」

ということを、明確に示すことができていないんです。我々の意識は、脳が生み出したものだということを証明できていません。本当に、無数の賢者、哲人たちが、単なるリーマンの世間知らず頑固じじぃなんぞあざ笑い、圧倒するほど考え続けているのに、いまだに

「意識は脳が生み出している」

と結論されていないわけですよ。このことはものすごいことなんです。知れば知るほど、本当にものすごいことで、こういう賢者たちの仕事も知らないで「死んだら無になる」だなどと、お前はどの口が言ってんだとw

なので、現在酒井さんは、あの世は信じております。絶対ある。ただし、それはもう「ある」とか「ない」とかの言語的な定義さえ超えた、言語化しようのない感じでの「ある」を信じる、ということで、それはもう確信しています。ただその「言語化も定義化もできない状態が間違いなくある」のは骨の髄から理解していますが、その状態がどういう状態なのかわからないから怖いな、というところまで、己の自己理解が進んできた感じですね。

今までの学びから、実はその「言語化も定義化もできない状態」そのものが、「意識の源泉」なのかも知れない、というぼんやりした感覚がありまして、それ自体が「意識」なのであればもうなんか、どーでもいいじゃん、というか、それならまぁ、平気かなと。このあたりの学説や体感を深めていけば、何か道が開けるのかなと感じますね。

唯一怖いなー、ヤダなーと思うのが、死後も消えないなんかがあるのは理解していますが、その「何か」が、また新しい肉体に取りついたら、それは勘弁してほしいといいますか、それが怖いなぁとw

いちおう、酒井さんの願いは、「死んだら二度と占いのない世界に行く」ということで、金輪際二度と占星術になど縁をもってたまるか、えんがちょ、ぺっぺっ、という感じなんですが、たぶん来世でも関係しちゃうのかも知れませんねぇ……。まぁわからん(笑)。たぶんこの全宇宙、生命が必ず恒星のそばの岩石惑星ではぐくまれるのが、絶対真理だ、ということになってしまえば、それはよその文明系でも「主星と惑星の体系がある」ということになり、それはそのまま「占星術がある」ということですから、なんだよ、この全宇宙のどこでも、占星術から逃げられる場所なんかないじゃないか!! ということになり、愕然としております(笑)。文明=占星術ですからね……。それは恐ろしいことですよええ(笑)。

となると、来世でもまた占星術師なんでしょうか(笑)。せめて、占い師の占星術師じゃなくて、もうちょっと科学よりな、天文学者とか理科学者とかに生まれたいですけどねぇ……。でもよその惑星の占星術が見てみたいから、たぶん来世はどこか、別の文明惑星に生まれたら楽しいなとか、思ってますけども。

さて、そんなどうでもいい話なんですが、死の恐怖で狂いそうになる状態(※これは病気の「症状」でありまして、死そのものとは何も関係がないことです)で、このままじゃいかん、と散歩に出かけ、川べりをゆらゆら歩いていたときなのですが、ふと

「そういえば人間って、意外と視野が狭いんだよな」と思い出しました。今現在、占星術の起源、占星術の体系が本当は何を言いたいのかを死ぬまでに、どうしても触れてみたくて、占星術の原理一切が描かれている古典「アルマゲスト」を、数学者の先生に個人レッスンを受けながら勉強しています。

そのアルマゲストの天文学は、どうしても三角関数と三平方の定理から派生したさまざまな定理によって編まれているので、まず三角関数の勉強をし直さないといけないのですけれども、その三角関数の勉強をしていて以外だったのは

「水平線は意外と近い」

ということなんですね。渚で、159センチの私が、肉眼で水平線を見たとする。んで、私の視線が159センチだったとして、足元からまっすぐ直角の二辺を引くと、自動的に「直角三角形」ができるわけです。ものすごいほっそーーーい直角三角形ですが、まぁ、それでも直角三角形であることは確か。

一辺の長さはわかっていて、その辺が交わるもう一辺との間の角は90度なのが判明していますから、あとは三平方の定理を用いれば自動的に水平線までの距離が測れるわけですが、すると水平線までの距離はせいぜい「4~5キロ」なんですよね……。もっと高い山とかに行けば、もっと見渡せるのでしょうが、地べたから水平線を見ればせいぜいそんなもん。

となると、私は、地べたから、たかが「半径4~5キロ」しか見えていない、ということになるわけです。

半径4~5キロしか見えてないくせに、渚で太平洋の水平線を見て「ああ、あの先に小笠原があるのだな」とか、「このずっと東にアメリカ西海岸があるのだな」とか思うんですが、バカ言ってんじゃないよと。

半径4~5キロしか見えていないのに、「その先も世界がある」だなんて、私はどうして思い込んでいるのか! と、そう気が付いたんです。

たぶん、実は4~5キロ先までしか「全宇宙」は存在しておらず、実は遠くの山も空も「スクリーンに映された映像」なだけだったとしても、私は

「げぇ!! 世界は4~5キロしかないやんか!! 助けて!! ここから出して!!」

とか、思わないでしょうw

本当はスクリーンかも知れない。本当はアメリカなんてどこにもないのかも知れない。だって私は「半径4~5キロ」しか見えていないのですもの。その先が「ある」だなんて、どうして言えるのかと。

多摩川のほとりで、そんなことを気付きました。たぶんこうして、多摩川のほとりに立つ今、この先にアメリカがあり、オーストラリアがあり、中国も韓国もインドも「ある」と、私はなぜ「信じているのか」。ああ、こちらが昼ならアメリカは今、昨日の晩御飯の頃なんだなぁとか、なんで「信じ込んで」いるのでしょうか。ものすごく不思議なことです。

それはたぶん、インドのお土産をもらった、とか、動画でインドの屋台を見たとか、インドから来た留学生と会話した、という「学習」によってそう思い込んでいるだけで、私が直接「インドに行ってきた」わけではありません。アメリカも中国もそうです(※実は酒井は、海外渡航経験がありません)。

なのに、なぜアメリカが「ある」、インドも「ある」、この瞬間地続きだと「信じる」のでしょうか。ものすごい、とてもとても、不思議なことです。よく考えたら、アメリカもインドも、私にとってはただの「うわさ」でしかないんですよ。ただの「うわさ」を私は、実在のインドだ、実在のアメリカだと「信じ込んで」いるわけで、これはとんでもないことだと気づいたんです。

ALSという難病があります。ホーキング博士の病ということで、広く知られていますが、この病の恐ろしさは「閉じこもりシンドローム」にあると言われています。

中世、拷問器具に「鉄の処女」というものがあり、そこに人間を入れてふたを閉めると、中の人は切り刻まれてミンチになる、という器具なのですが、そこに入れられたらどんなに恐ろしいだろうと思うんですけれども、ALSもそういうイメージです。

しかし、我々は、たかが「半径4~5キロ」しか見えていないくせに、いまこのとき地続きで「アメリカもある」「インドもある」と思うわけで、アメリカどころか「アンドロメダ銀河」や「マゼラン星雲」だって「ある」と思い込んで、見えない海王星や冥王星だって「ある」と信じ込んでいるではないか!と。

だとすると、ALSの難病の方と、我々とで、なんの違いがあるのでしょうか。肉体に「閉じ込められて」いる感覚は恐ろしいが、しかし野外に出て、広々とした渚でさえ「実は4~5キロ」でしかなく、そのくせ、地続きでマゼラン星雲もアンドロメダ銀河も「ある」と思い込んでいる。とんでもないことだなと。ALS患者さんをかわいそうだ、とか、気の毒だ、とか思っても、寝たきりになりたくないと思っても、我々は最初から「半径4キロの閉じ込められシンドローム」をずーーーっと生きているんじゃないか。

そう気づいたとき、ああ、私はこの「閉じ込められシンドローム」が怖い、と勘違いしていて、だからベッドで寝た切りのような情景を「想像」するとたまらなく怖いんだな、と思うんですが、しかし生まれたときからずーーーっと「寝たきりの人」と変わらない世界を生きていたんだなと、はっきりっ気が付きました。

アメリカもインドも、大アンドロメダや、見たことすらないブラックホールや事象の地平でさえ「ある」と思い込んでいるのだから、単に「うわさ」にしかすぎない「あの世」を信じられないほうがおかしいのです。

あの世を見た、行ってきた、輪廻転生の証拠とか、意識と霊魂の関係など、実はあの世の噂は、あの世が断じてない、という噂をはるかに凌駕する分量出回っているわけです。「ある」のうわさのほうが「ない」のうわさを圧倒的に凌駕する。

だったら、あなたはアメリカが今、このとき「ある」と思うのに、なぜ見えない世界は信じないのですかと。アメリカが本当に今、このとき「ある」だなんて、どうして言えるのですかと。それと死後の世界はなんの違いがあるのでしょうかと。

そこに気づいたら、タナトフォビアはずいぶん軽くなり、症状がなくなりましたね(笑)。タナトフォビアの症状は哲学で意外となんとかなるもんだなと思いますし、豊かな老後を送るためには、「あの世」を信じることが絶対のデフォルトなわけで、私は幸福に生きていきたいですから、あの世をこれからも疑いようのない事実として信じて、ラクにゆったり死んで行けるよう、がんばろうかなと思います。


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