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細見茂65歳、勤続47年にして初めての遅刻|超短編小説

「頭あげてください」

若干30歳にして、従業員70人を越えたこの工場をまとめ上げるサトシ坊ちゃんは落ち着いた口調で、先刻から床に目を落とす私に仰った。

「情けない…本当に、本当にすみませんでした」

「そんな大袈裟な。しかし細見さんが遅刻して来られるなんて本当に珍しいですね。僕が先代からこの工場を受け継いだ後では初めてじゃないですか?」

「…はい。18の時に先代に拾われ、65になった今日まで遅刻をした事は一度もございませんでした。勤続47年無遅刻、この細見恥ずかしながらそれだけを誇れる所として働いてまいりました」

「先代から一度もですか。本当に素晴らしいです」

「なのに…なのに二代目サトシ坊ちゃんの代でまさかの失態。来月の定年退職を前に気が緩んでいたとしか申し上げられません。本当にお恥ずかしい限りです」

「そんなご自分を責めずに。僕が幼少の頃から遊んで頂いたり世話をしてもらった細見さんに若輩者がこんな事を言うのはおこがましいのですが、人間誰にだって失敗はあります。」

サトシ坊ちゃんの優しさが老いを迎えた体に沁みた。遺伝子は先代の人情までこのご子息に伝える事に成功したのか。

「坊ちゃん、この細見退職目前ですが、なんとか残された勤務で本日の失態をとり返せるよう精一杯仕事に励みます」

「ありがとうございます。ただご無理は禁物ですよ」

「もったいなきお言葉。では勤務に就かせていただきます」

私は社長室を後にすべく一歩踏み出した。

「あ、細見さん」

「はい?」

「明日坊主にして来てください」

坊ちゃんはポルトガル語を話されたと思った。

あまりに意味が分からず、聞き馴染みのないポルトガル語か何かを坊ちゃんは話されたと思った。

私は間の抜けた顔で再び「はい?」と発していた。

「工場での事故防止など気の緩みをなくす一環で、まあお笑い半分でですが『今月遅刻した者は坊主』というルールを設けました。今朝の朝礼で皆さんにお伝えしたのですが細見さんは遅刻して居らっしゃらなかったので」

坊ちゃんは長尺のポルトガル語か何かを話されたと思った。

理解するのに時間がかかるのは私が老いたからなのか?

「えっと…私が…坊主ですか?」

「今月、つまり今日からの適用です。つまり細見さんは該当します。つまり明日坊主にして来てください」

つまりを繰り返す人間に育っている。

「ご自宅にバリカンはありますか?」

ご自宅にバリカンはありますかと訊かれている。

「もしお持ちでないならこれを」

坊ちゃんは社長机の引き出しに手をかけた。

刹那、坊ちゃんが学習机の引き出しに手をかけ「お父さんには言わないでね」とこっそりそこで飼っていた青々しいカマキリを私に見せてくれた光景が昨日の事のように蘇った。

あの日の少年は成長を遂げ、今では引き出しに忍ばせていた凶々しいバリカンを堂々と私に見せてくれた。

細見茂65歳、思い返せば真面目一徹なんのおもしろ味もなく平穏無事に生きて来た。

そんな男が今日は今からふたつめの人生初体験をしようとしている。

ひとつめは今朝の遅刻。

ふたつめは主への意見だ。

これまでの自分なら考えられないふたつの行為。

特に主への意見など反逆ではないのか。

ふと、これまでの自分が、坊ちゃんの背後に立ってこちらを見ている気がした。

自分と目が合った。

これまでの自分がこれからの自分に、優しく微笑みかけた。

そうだよな。お前もそう思うよな。

「坊ちゃん」

「はい?」

「お前モンスターやん」

ーENDー

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