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【Starlight Destiny#2】曽祖父の家


私は、曽祖父から「こども」と呼ばれていたが両親につけてもらった
名前はある。ここでは「ここ」と呼んでみようか。曽祖父は実母の祖父に
あたる。

私の普段住んでいる場所から曽祖父の家言い換えれば母の実家だが車で
5分ほどにある。母はことあるごとに実家に帰るのが好きだった。なぜかはもう少し大きくなってからその疑問は判明された。

曽祖父・曾祖母・祖父・祖母は拝み屋の影響なのか長寿だったが
身の回りの世話を祖母だけに託すのは大変だと母が手伝いに行っていた。
曽祖父・祖父ともに昔気質の人間なため家事などをこなすなどありえないことだった。

昔ながらの長い平屋に住んでいて今で言うとノスタルジックな空間がある風貌である。豆腐屋がある母屋から曽祖父の寝室部屋まで長い一直線の廊下があり、雑巾がけするには腰が鍛えることも可能であり、子供が遊ぶには一直線に駆け込むことが出来て楽しい遊び場でもあった。

ここで簡単に自己紹介するとしよう

「曽祖父」102歳で自力でスタスタ歩くことができ趣味は温室で胡蝶蘭を栽培する軍人年金はすべてこの胡蝶蘭に消えていく

「曾祖母」98歳 夫の後ろを3歩下がって歩く大正時代の人 家業の豆腐屋を仕事をろくにしない夫の代わりに切り盛りするが夫に対しての愚痴は101倍強く母がいつも聞き役

「祖父」65歳 家業の豆腐屋を曾祖母とともに切り盛りする。いわゆる婿殿

「祖母」60歳 家業は実母と夫に任せて手先の器用さをいかし着物の仕立て屋を自宅営む

私の下に妹と弟が2歳づつ離れ3人きょうだい。
私の出産後、彼女と彼はこの世に誕生したが普通の赤ちゃんらしく
「おぎゃ~」と泣いて今日にある
いまだに曽祖父からは3人とも「こども」とひとくくりに呼ばれるのは同じ

豆腐屋は曽祖父夫妻が樺太(現在のサハリン)から引き上げてから営む
なぜ豆腐屋か?と曾祖母に尋ねると「食べ物商売が一番くいっぱぐれがなかったから」と単純な答えだった。

豆腐屋の朝は早い 午前2時に起きて大豆を洗ったり、蒸かしたり それを干したり、にがりを入れて固めたり、干されたものを揚げたりとひとつの工程をはじめてから終わるまで案外時間がかかるお仕事である。

母が私たちを連れて実家に訪れると出来上がった豆腐や油揚げを三輪車と呼ばれる車に乗せて母が方々の店に配達に行く。その間祖母が揚げている油揚げに鉄砲と呼ばれる空気を膨らませるものを使い素手でもち空気を入れる。子供ながらに辛い仕事だったか終わったあとにくれるうさぎ餅(板餅で8等分に割って使える餅)を割って揚げてくれる餅が食べたいだけのアルバイトだった。

その間、曽祖父は温室の中で胡蝶蘭を栽培。お茶が入ったと声をかけると胡蝶蘭になったのかというぐらい同化しているさまがあった。そんな拝み屋の仕事をしている怖い・気持ち悪い感じのイメージと花と戯れていて笑顔でいる姿のギャップがとっても好きだった。

樺太帰りの曾祖母はとにかく豚肉を使うのが主流。普段のお昼ご飯でもお雑煮を作り、具材も豚肉とネギのみだった。塩味にし味噌を隠し味に入れる。これに揚げたてのうさぎ餅を入れるとなお風味がでて美味しかった記憶がある。そんな曽祖父の家に通うのが大好きな子供たちである。食べることもそうだが、誰も小さいことでは絶対に怒らないこと。母はいつも
「ちゃんとしなさい」・「なにしているの」・「早くして」・「やめて」・「勉強しなさい」など叱られているばかりだが、
曽祖父の家に行くと曽祖父・曾祖母・祖父・祖母ともに口をそろえてなんでも言葉が四文字だった。
「報恩謝徳(ほうおんしゃとく)を忘れずに」
「勇往邁進(ゆうおうまいしん)おきばりやす」が多かった
何言われてるのかわからなかったので字引で調べた。
いただいた恩は忘れずに感謝の気持ちをもって
自分が決めたことは前進して頑張る

間違ったことをすると寒い押し入れに閉じ込められた
「頭を冷やしてよく考えなさい」メソメソないていたが
泣き止むと自分が悪いことに気が付く。
祖父が
「もうわかったかな?おおじいじにあやまりなさい」と
曽祖父と一対一になって正座して謝罪していた。
幼稚園上がるまえだからかなり幼いですよね。


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