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「あの子と比べて私は…」について思うこと

自分を落ち込ませるために他人を使うな

私の知り合いの男性に、異常に他人と自分を比較して落ち込む人がいる。

  • 〇〇さんは、今の自分の歳の頃には(今の自分よりも)成果をたくさん出していた。それなのに自分は・・・

  • 同期の△△君はもう□□のポジションにいる!しかも(自分よりも)いいポジションに!それなのに自分は・・・

  • 後輩のXXは、若くに結婚して子供も2人いる。会社で成功している。お金も持っている。それなのに自分は・・・などなど。

そのような話を聞くたびに、常々思う。

そんなに人と比べていったいお前はどうなりたいんだ? と。

あらかじめ言っておきたいのは、私は彼のことが嫌いではないし、他人と自分を一切比較するべきではないと言っているわけでもない。
例えば他者と自分を比較して、私も頑張ろうと気を引き締めたり、他者に憧れをもつことでより自分を高みに持っていこうとすることは、何も悪いことではないと思う。
ただ私が言いたいのは「自分を落ち込ませるために他人を使うな」ということである。

彼が比較対象として話に出す人々は、総じて「とてつもない成功者」「業界の大御所」「世界的に知られているような人」ばかりだ。
そのような人たちと、今現在”そう”ではない自分を比較して、今の自分はダメだと落ち込んでいるわけである。
きつい言い方をすれば、彼は(多分)自己肯定感が低いのに理想が高い(しかも激高)というギャップがあって、その理想の状態に達していない自分に苛立って、落ち込んでいるのだ。

そんな落ち込みを毎日毎日繰り返している彼の話を聞いて、彼は落ち込み依存になっているんじゃないか?とすら思えてくる。
他人と比較しなくても、彼は仕事熱心だし、明るいし、人間として尊敬できるのに、そんな自分の素晴らしさに蓋をして、自分を卑下することに何の意味があるのだろうか?
せめて落ち込んだ先に何かあればいいが、彼の場合は落ち込んで、卑下して、それで終わりなのだ。
これは果たして健康的な思考だろうか?


人間に優劣をつけるな

他人と自分を比較した上で優劣をつけることに何の意味があるのだろう。
どんなに頑張っても、その人にはなれるはずはないのに。
人間同士の比較という行為は、その人と自分の間に優劣をつけることにつながりやすい。
あの人は私より優れている/劣っている、私はあの人より優れている/劣っている。
どちらかの人間を上に置き、どちらかの人間を下に置く。
私は昔からそれが我慢ならない。
私は人に優劣をつけることが何より嫌いだ。
人は全員別々の個性を持っているのに、比較となると同じ尺度で測らなければならない。

身長、体重、学歴、年収、認知度、いいねの数、・・・などなど。

だいたいそれらにはその人が生きている社会の価値観が入り込んでいる。
学歴は高い方がいい
年収は高い方がいい
痩せている方がいい
人気があった方がいい

本当にそんなものどうでもいいと思う。
これらは別にいらないと言っているわけではないけれど、たかがそんなもので人間の価値は決まらない。
私は、その人がその人として、その人らしく生きているだけで素晴らしいと思う。
そもそも、それぞれがそれぞれの良さを持っているのだから、その「それぞれの良さ」を伸ばしていけばいいのではないか?


『真理先生』に学ぶ

私は「生涯一冊だけしか読めないとしたら何の本を選びますか?」と聞かれたらとしたら、おそらく武者小路実篤の『真理先生』を選ぶ。

『真理先生』は人道主義、理想主義を特徴とする白樺派の武者小路実篤が執筆した作品の一つである。
独身で無一文、家事は弟子任せ、人々に真理を語ることを生活としている「真理先生」と、真理先生に関わって変化していく人々とが描かれている。
私はその登場人物の一人である「馬鹿一(石かき先生)」が好きだ。
人生の師としていると言っても過言ではない。
馬鹿一は独身の絵描きの老人で、何十年も石の絵ばかりを描いている。
もちろんそんなわけで絵描きとして売れているわけではない。
でも、誰よりも対象である石を観察し、誠実に向き合い、愛情を持って描いているのである。
ある意味「石を描く」という一点において、誠実に「石かき」絵描きである自己を完成させようとしているわけである。

『真理先生』では、特に劇的な感動シーンが描かれるわけではないし、誰かが死ぬような刺激的なシーンがあるわけでもない。
「真理先生」が真理について話し、(多少の恋愛話も絡めつつ)淡々と話が進んでいくだけである。
ただ、私は初めて『真理先生』を読んだ時、感動に打ち震え、咽び泣いた。
人間とは何と愛おしい存在なのだろうと思った。
人間とは何と尊い存在なのだろうと思った。
真理を求めることとは、なんと、何物にも変え難いものなのだろうと思った。
例えば「真理先生」が真理について語った箇所に、このような一文がある。

「神は愛なり」之は真理であります。すべての人の生命を完き姿で愛する、それが出来た時私達は神と一緒になったのであります。一つの生命も我等はまちがったまゝでは愛することは出来ません。他人の生命が完き姿で生きることを拒むものを、私達は愛することが出来ないからです。しかしその人が心がけをなおして、すなおな心になり、すべての人の心が完き姿で生きることを望むようになれば、我等は涙ぐみながらその人を愛するのであります。つまり私達は、すべての人間が完成されることを望み、その方に向って前進することを真埋に要求されているのです。この真理を目指して、私達は自分相応のカで前進することを心がけることが出来れば、その人は真理を愛する人だと言うことが出来るのです。

『真理先生』
武者小路実篤 1952

真理は人間に自己の完成を目指して前進することを求める。
自分の相応の力で自己の完成を目指す。
この生き方をしている人が、「真理を愛する人」なのだと。

これこそ私が目指すべき姿だと思った。
他人と比較して競うことに必死になったりする必要はない。
自分という存在を懸命に磨いて、生きて、自己完成させることを目指す生き方。
日々誰かと自身を比較して、「私(あの子)の方が優れている」「私(あの子)の方が劣っている」といって人を優劣をつけるよりも、自己の完成のために一心に、誠実に自身に向き合う方がどれだけ建設的だろうか。
自己完成へ向かう過程は、理想とする自己に向かって自らの力で自分を磨いていく過程だ。
そこに他人が入る余地はない。


あなたがあなたのままで

この世界のすべての花が薔薇になってしまったら美しいだろうか。
すみれの花が、すみれであることを否定して、薔薇の方が商品的価値があるから、高く買ってもらえるからと薔薇になろうとすることは美しいだろうか。
薔薇には薔薇の、すみれにはすみれの、それぞれの良さや美しさがある。
薔薇が薔薇として咲くこと。
すみれがすみれとして咲くこと。
様々な花がそれぞれの生命を受け入れありのまま生きようとしている姿は何と美しい調和のとれた世界だろうか。

それぞれにそれぞれの良さがある。
その良さはそもそも人と比べられるものではない。
であるならば、人は誰と比較することなく、ただ自分の良いところを伸ばしていけばいい。
それがゆくゆくは調和のあるより良い世界につながっていくだろう。

『真理先生』と出会って以来、私は人と比較することに興味がなくなった。
他人が自分より出世しようが、お金を稼ごうが、多くのいいねを集めようが、どうでもいいし、全くといっていいほど気にならない。
それは「私の自己完成」に関係ないからだ。
もちろん、知り合いが幸せになったり社会に認められることは嬉しい。
その人の自己研鑽が実ったということだからだ。


だから、私は、いつも誰かと比較して自身を卑下して苦しんでいる彼に言いたい。

もしあなたが人と比較することに苦しんでいるのであれば、
そんなことはやめて、あなたは「あなたの完成」を目指してほしい。
もっと良きあなたを目指してほしい。
もう一度、自分の良い部分を思い出してほしい。
あなたが真理を愛してくれれば、この世界はもっと良くなるはずだから、と。