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当たって砕けて海外文学

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海外文学の積読にひたすら体当たりしてどこまで小さな石ころになれるか試しています。
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いつだってそばにいる:ミヒャエル・エンデ『モモ』

私は読書は体験だと思っているし、子供時代ならなおさらだ。 子供の頃に夢中で読んだ本はいくつもあるのに、思い出せるのは当時の自分の熱狂ぶりばかりで、ではどんな話だったかとなると途端にぼんやりとしてくる。下手をするとタイトルだって怪しくなってくる。 先日も、小学校の時に大好きで何度も図書館から借りていた本の名前を思い出したくて、覚えている表紙のイメージと断片的なタイトルと内容だけで必死で調べた。記憶にあるのは、緑色の表紙で、「○○おばさん」というタイトルで、翻訳物で、子供の問

かけ離れているようでそうではない

アゴタ・クリストフの『悪童日記』を読んだ。そしてちょっと、もうちょっと知りたいなと思って『文盲』も読んだ。でも、もう少し、もう少しと思ってしまい、図書館で『昨日』と『どちらでもいい』を借りた。ちなみに『ふたりの証拠』と『第三の嘘』のことはうっかり忘れていた。 本当は書評とか論考とか、そういうものもあった方がいいかと思って手に取りかけたけど、それを読んだら絶対に引っ張られる自信があるのであえてやめた。訳者のあとがきと文庫解説だけ。それだけにした。 格好つけていえば、多様な解

そこには痛みを伴う読書があって

アゴタ・クリストフの『悪童日記』を読んでいる。が、遅々として進まない。この本は数ページずつの小さな章に別れていて、それをできるだけ毎日、何章かずつ読んでいるのだが、できることなら一度にたくさん読み進めたい。のに、それができないのだ。 捗らない、という話は前にもしたことがあるので「またか」という感じだが、今回は理由が違う。その理由は、外国文学云々ではなく、タイトルにも入れた通り、この本の抱える「痛み」のためだ。 本書を読んだことのある人ならよくわかると思うが、時代と環境によ

そうかこれが世界文学か

まるで詩のようだ、と思った。読んでいるとフワフワとした気持ちになって、少しずつ言葉に絡め取られていく。そんな感じだ。 イーユン・リー『夢から夢へ』(「GRANTA JAPAN with 早稲田文学 03」所収、早川書房、2016年) 前回で予告したとおり読んでみた。が、いわゆる「文学的」な感が強く一読では掴みきれない作品であった。なので、同じ作者の短編集『千年の祈り』の訳者あとがきを読んでみる。外国文学の訳者あとがきや解説は、作者の略歴などをきちんと書いてくれていることが

それはいつかの青春の

読みました。『スタンド・バイ・ミー』(スティーブン・キング、新潮文庫)。 途中の、知らないカタカナの固有名詞が立て続けに出てくるあたりで「これだ、これだよ、これが外国小説の苦手なところなんだ」とクラクラしたりとか、「○○なのさ」みたいなアメリカ文学特有(だと私は思っているが私だけだろう)の訳に気持ちが置いて行かれそうになったが、いや、でもやっぱりいい小説なのだと思う。 思う、とぼんやりした表現になってしまうのは、細部とか構造とかまで深く読み込めていないからなのだけれど(と

『スタンド・バイ・ミー』が進まない

ある程度予想はしていたが、予想通り過ぎてがっかりだ。まあ人間というのはそう変われないのだから仕方がない。 外国の小説を読むぞ、こんにちは海外文学、さようなら積読と言って表向きは意気揚々と始めてみたものの、結局腰は重いままで、新潮文庫のスティーブン・キング『スタンド・バイ・ミー』の「はじめに」を読んで、「スタンド・バイ・ミー」を読み始めて、まだ冒頭の部分なのに一旦閉じて、気がつけば私はカレー沢薫を読んでしまっていた。 それはスティーブン・キングよりもカレー沢薫の方が面白い、

海外小説を端から読んでみる

私の本棚には海外小説がいろいろとあるが、実際に読まれたものは一部だけで、多くの本はいやゆる積読だったりお飾りのようだったりする。 学生時代に外国文学を囓っていた関係で買った本、面白そうだと思って買った本、話題なっていた本、格好つけて買った本など集めた理由は様々だが、読もう読もうと思っているうちに気がつけば何年も経った。 そしてその間にも本は増え続け、「ああ、読んでいない」という後ろめたさも積み重なっていった。 このままだと読まない本に侵食されるだけでなく、「外国の小説も