何者かには成れない
自分は表舞台に立って何かをする存在ではない。
小さい時からそれをわかっていたのに、今になって、人前に立ちたい、何かをしたい、何かをできるはず、そう思ってしまう自分がいる。
実際は人前に出れば笑い者、何かができるはずもなく、何もできやしないのに。
私と言う人間は1人しかいない。それは確かなことなのかもしれないが、何も嬉しくない。私が私でなければ、もう少しまともな人生を歩めたのではないかと思う。
スティーブ・ジョブズだって、彼がいなかったら他の人がきっと彼と同じようなことをしていただろうし、何事もきっとそうなのである。天下統一だってなんだって、その人がいなければ他の人がやるのだ。そんなものなのだ世の中。
私にしか出来ないこと、なんて考えていても無駄だ、私がいなければ誰かがいるし、私がやらなくても誰かがやるのだ。替えという存在は必ずどこかにいるのだ。
もっと言えば、親が産むのは私ではなくても良かったはずだし、彼の隣で眠るのも、友人が一緒に遊ぶのも私ではなくてよかったはずなのである。
そんなことばかり考えていると、本当に自分は何者でもなく、何者にも成れないのだから、ぬくぬくと布団の間に挟まり、静かに時の流れを感じながら老いて死ねばいいのに、最早今死んでも、生まれなくてもよかったのに、となってしまう。
それでも活力のある時だけは何故か、何かができる気がする、と、今みたいにせっせと創作をしてみたりするのだ、情報の中に埋もれる小さな塵にもならないと言うのに。
もし私が何者かに成れたら、そうは思わなくなるのだろうか。何物かに成るとはどういうことなのか、全く検討もつかないが、今より少しは人生が楽しく成るのかもしれない。苦悩も多いだろうが、その分楽しいことだってあるはずだ。
私は辺なところが楽観的なのかもしれない。
でも一つ思うことがある。たとえ私が何者かに成れなかったとしても、誰かにとって重要な存在になれればいいなと。それはきっと死に際にでもならないとわからないだろうけど。
祖父が祖父の兄の葬式で大人気もなく棺に縋り泣く姿を見た。
私は亡き祖父の兄に会った記憶もないくらいに幼く、その棺に眠る人間らしきものが何なのかも分からなかった。
しかし、今になって思うのだ。祖父の兄は祖父にとって何者かであったのだと。
死んだ時、それを悲しんでくれる人、そして死んでもなお記憶に留めてくれる人、そう言う存在がいればきっと、その時に私は、その人の何者かに成れていたことになるのだと思う。
何者かには成れなくとも、少なくとも、誰かに私がいたと言うことを死んでもなお忘れずにいてもらいたいと思うのは欲深いことだろうか。
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