「当たり前」の範囲を広くもちたい

先月末に漫画家のヤマシタトモコさんが、「ホモ」や「NL」という言葉は使わないことにしているというツイートをして、以降「腐」や「NL」という表記について、二次元オタクたちの間でも少し話題になっていた。

私はこのあたりに関して自分の中でひとまず結論がついて、今年から「腐」と名乗るのをやめた。「こういうものを好む私は腐っている」なんて、結局は異性愛規範や女性蔑視に基づいた自称だと腑に落ちたのだ(※)。差別だからという理由はちょっと違う。誰かを傷つける言葉だからというと、誰も傷ついていなければ問題ないことになる。意識が高いということもない。言い訳めいた自虐を用いて、好きなものに対する責任を逃れるのはよろしくないと思った。正直なところ、同好の士だけが見るのなら「ホモ」という語を使うことにも罪はないと思っていた時期もある。でも、インターネットに生息する以上、「コソコソやってるので許してほしい」は無理だ。誠実に努めるしかない。

異性のCPはもともとジャンル外だが、異性愛=普通の恋愛というのは同意できないので、必要なときは男女CPと呼んでいた。
「NL(ノーマルラブ)」という語は同性愛者だけが可否を問えるものでもなくて、非性愛・非恋愛の人間だって「恋愛するのが普通ってなんじゃい」と思うし、性的マイノリティの当事者でなかろうとも単純に「普通」という言葉の使い方には疑問を覚える。21世紀に入って20年も経ったし、偏見が明らかな言葉はもう衰退していると思っていたら、意外と使っている人が多いと最近知って、なぜ????という気持ちでいっぱいだった。
「ノーマルという言葉に深い意味はない、慣例で使っている」という場合が大半なのだろうが、意識していないからこそ問題なんじゃないだろうか。自分が「当たり前」だとか「普通」だと思っていることが、偏見かどうか疑いもしないことを差別というのだ。なにも恋愛的指向に関してだけじゃない。出自、家庭、職業、病気や障害…ある部分で多数とは異なる人たちはこの世にたくさんいるわけだが、マジョリティであることを「普通」と言い換えてしまえる人は、マイノリティが存在することを「当たり前」や「普通」とは思っていないように見えてしまう。そういう人に「普通」でない属性を明かさざるを得ないときには、つい警戒してしまう。実際、経験として(嫌悪されないまでも)好奇の目を向けられたり憐れまれたりしたことはあるからだ。
これまで接したことはなくとも、いろいろな境遇の人がいる。誰にでも表には出さない事情があるかもしれない。そういうことを一切想定に入れていない人と話すのは怖い。
どこを切り取っても必ず多数に属する人間なんてそうは多くないと思うのだが、どうしてこんなにすんなり「普通」という言葉を使えるんだろう。ここには大きな隔たりがあって、根本的に宗教が違うというか、同じ物語には乗れないだろうという寂しさや虚しさがある。
とはいえ私自身、知らずにいろいろなことを決めつけて、偏見をもっているに違いない。「あなたは正しくない」と言われて腹が立つこともあるだろう。だからできるだけ、更新できるところはしておきたいのだ。自分の好き嫌いを守るために、世の中に誠意のない態度を取りたくないから。

ところで、名乗るのをやめてみてから「腐女子」という言葉に自分はずいぶん囚われていたんだな、と気づいたりもした。「男性が二人いれば恋人に見立てたくなる人」という意味で「腐女子」を名乗るからには、自分の好むもの・書くものは意図していなくてもすべてそういう含みをもっていると取られて仕方ないと思っていた。恋愛以外にもいろんな関係性が好き、人間関係抜きでも物語が好きだというのを自信をもって言えるようになった気がする。BLは変わらず好きだけど、今後はshipperを名乗ることもないし、ただのオタクです。


※「腐」という語の問題点はこちらの記事がよかった。いらすとや素材の使い方とわかりやすい文章が絶妙。


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