自分が好きなものにたどりつくための距離が、果てしないと感じるようになった。

自分は元々脳が混乱しやすいタイプなので、どのプラットフォームでも余りフォローはしない。自分がはっきりと把握できる量に、情報を限定しておきたいという気持ちが強い。

だからこそ、かもしれないけれど、限定された把握できる容量の中には自分が本当に必要だと思うもの、好きだなと思うものだけを入れておきたいと思っている。

noteもそういう風に使いたい、と思っているけれど、どうもおススメに出てくるタイトルやスニペットを見ても「自分が好きになるかもしれない」という直観が働かない。

自分は元々「最大公約数的なもの」には興味を持たない傾向がある。

「自分にとってどうか」が全てだ。経験的に「他の多くの人がいいと言っているから」で興味を持つと、自分には合わないことのほうが多かったことから学んだのもある。

「他の多くの人が好きなもの」を好きになることもあるが、それは結果論で、選ぶ基準としては「自分が直観的に好きになれそうなものを、人の評価を気にせずに選ぶ」ほうが好きになれる可能性が高い。


ひとつ見つかると芋づる式に見つかるのは、だいたい自分の好きなもの(人)がキューレーションになってくれるからだろう。

「あなたにおすすめ」よりも「自分が好きなものを見た(読んだ人)」が見た(読んだ)もののほうが、好きになる確率が高い。何だかんだ言ってアルゴリズムよりも人の感覚のほうが波長が合いやすいからなのか。

ただそのキューレーションとなってくれる(というより自分が勝手にしているだけだけど)人なり物なりにたどり着くまでが、無茶苦茶大変だと最近しみじみ感じる。

はてブは色々と言われる部分はあるにせよ、「いる人全員がキューレーター」なところはいい。プレイヤーと観客を兼ねている人が多いプラットフォームだと、言い方は悪いが「付き合い」というノイズがどうしても入る。


*今日、はてブのトップに上がっていた藤本タツキ「ルックバック」は圧巻な内容だった。朝から泣いた。


「付き合い」が悪いというわけではなく(というより、むしろ現実に考えれば明らかにいいことだし、今の時代にもマッチした考え方だと思う)、自分が何かを選ぶときにはノイズになりやすいな、と思う。

自分がこういう考え方の人間だからなのもあるけれど。


自分はたぶん古い考え方の人間で、ネットでは余り人の属性を必要としていない。相手に対しても極端なことを言えば、「アウトプット」しか求めていない。その人が「アウトプットしているもの」が自分にとって良いものであれば、その人の「思考や感覚、選ぶ目」を信頼する。

もちろんアウトプットするものを見ているうちに人柄を信頼したり、それなりに好きになることもあるが、現実に比べれば明らかに二の次だ。「たぶん、実際に会ったら仲良くはならないだろう」と思う人でも、その人が生み出すコンテンツは信頼していることは往々にしてある。(*今、オリンピック関連で燃えている人くらい言動がひどい場合は別だけれど)

書いていて気付いたけれど、「プロの創作者との距離感」と同じだ。「この作者(制作陣)が作ったものなら、自分は面白いと思うだろう」という信頼感を一番必要としている。


「自分が面白いと思うものを見つけるための距離」が果てしなくなった、と最近感じる。

①情報量が多い。

②「付き合い」というノイズを抜いた評価の集積が見づらくなった。

この二つが大きい。

自分が好きだと思えるものを新しく探したい、と思ってもその道のりが余りに果てしないように感じられて、結局「好きだという評価が自分の中で既に定まっているものだけを楽しむ」という定位置から動けないことがよくある。

探し始める前に力尽きてしまう。

ただ「じゃあ、ごく限られた人のみが発信する情報や評価しか見えない時代に戻りたいか」というとそんなことはないので難しい。


「この人の生み出す(選ぶ)ものは自分にとっては面白い」という人を地道に探すしかないんだろうな。

一人でも見つかれば、そこからまた世界が広がるから。

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