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【「エネアド(ENNEAD)」キャラ語り】「ドキ〇ガイ野郎」オシリスを狂わせたものとは何なのか。

前段。「エネアド」はこういう話ではないかと思っている。

オシリスというキャラで自分が一番興味を持っている点は、「自分が深い愛情と執着を持っている相手とまったくコミュニケーションが成り立たないところ」だ。自分はオシリスが余り好きではないが、この点については深く同情している。

オシリスはセトに愛情を抱いているが、セトは自分の認識の枠内のオシリスにしか興味がない。つまり本当の意味ではまったくオシリスに興味がない。

上記の記事で書いた通り、セトは普段は「男らしさ」という規範でコーティングされた世界観で生きている。
しかしセトはそれだけの人間ではなく、「男らしさ」という鎧の中に本来の「素の自分」を隠し持っている。
しかしその「素の自分」を、オシリスの前では出そうとはしない。
オシリスはセトを内面まで把握していたので、存在が見えているのにその部分にまったく立ち入れないのはかなりキツかったと思う。

41話でオシリスがセトに告白するシーンは、セト視点で見るとオシリスは突然狂った「ドキチガイ野郎」にしか見えない。
しかしオシリスの視点(認識)で見ると、まったく別の意味合いになる。
二人の会話の中での、オシリスの表情の揺れや目力が凄い。
オシリスは思いの強さ自体は雄弁に語らず、ほぼ表情や行動で表している。その表情を見るだけで、セトに対して長いあいだ強い思いを抱いてきたことがよく分かる。

(「エネアド」41話 MOJITO)

しかしセトはそのオシリスの視点(認識)を、理解しようという試みさえしない。
オシリスのとてつもない重力のある問いかけに対して、セトの答えは余りに軽い。悩むどころか、まったく考えることなく「それが当たり前だろ」という調子で返答している。

いくら何でも↑の状態の問いかけに対して、この反応はないのでは……。

(「エネアド」41話 MOJITO)

オシリスの「分かっていた」と言いたげな、諦念に満ちた笑いが切ない。

オシリスは「セトの世界観(認識)のみによる関係性」に何百年も耐えてきた。「自分の認識をまったく理解しない相手と、相手の認識を一方的に受け入れて付き合う」というのは、かなりキツイことだ。

セトの立場からすれば「気づかないものは仕方がない」と思わないでもないが、それにしてもオシリスは何百年も

(「エネアド」10話 MOJITO)

こういう表情でセトを見てきたのだ。
これにまったく気づかないとしたら、それは「自分に何ひとつ興味がない」と考えるしかないと思う。

セトはオシリスの真意を知るまではオシリスのことを兄として主君として慕っていた。オシリスに対して悪意などみじんもなく、むしろ好意を抱いていた。
それにも関わらず、オシリスが何を考えているのか、どういう風に自分を(もっと言うなら世界を)見ていたのかまるで興味がなかったのだ。
「好きなはずなのに相手は自分に興味がなく、自分の認識を知ろうという発想すらない」というのは絶望しかない。(個人的には意外とよくある話だと思うが)好かれていてこれであれば、相手が自分のことを理解することは決してないということだからだ。

なので、オシリスが思い余ってセトの認識の枠組みを力技でぶち壊そうとした気持ち自体は、わからなくもない。
わからなくもないけれど、それはやっちゃいかんだろと思う。
他人の認識は他人のものなので、こちらの分かり合おうという努力が作用しなければ、それは潔く諦めるしかない。(オシリスもそれは分かったうえで、だとは思うが、脅して強〇はいかん。)

セトの魅力は、このある種の鈍感さだと思う。
ネフセトの記事で、ネフティスがオシリスとのあんなえげつない取引に走ったのは、セトに対する試し行動の一種ではないかと書いたが、セトの鈍感さは、「どこまでやったら、この人は私に目を向けるんだろう」と人の行動を際限なくエスカレートさせる何かがある。
鈍感さだけの人ならみんな諦めるのだろうが、セトはその鈍感さ(規範)という鎧の奥に何かを隠し持っている。それが分かってしまう人間は、何とかして見たいと思って離れられなくなってしまう。

オシリスとのシーンも狂犬のように暴れていたのに、アヌビスのことを持ち出した途端、突然涙ながらに「何でもするから」と言い出す。
みんなそういうセトが見たくて離れられなくなってしまうのだ。

(「エネアド」29話 MOJITO)

オシリスのあの「狂気のような執着」は、セトの鈍感さとその下にある脆さという魅力によって生み出された。
「ドキチガイ野郎」オシリスは、セトの魅力に狂わされた人なのだ。

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