女性の胸の描写が揉めやすいのは何故か。→という話からの「気持ち(感情)」で物事を決めようとすることの、何が問題か。

「月曜日のたわわ」があれだけ延焼したのは何故か。
思いついた仮説は、「女性の胸の描写は、男と女の世界の認識(リアリティ)が根本からズレていることが、最も露骨に出るからではないか」だ。

男は「女性の胸の描写において、『揺れるか揺れないかにリアリティの軸を置く』」
女性は「『胸は、揺らしたくないという実感』がリアリティである」


Vtubar戸錠梨香の話の時に、「女性の胸のリアリティ」を「揺れるか揺れないか」の軸で話している(それ以外の軸を思いつかない)人を観測した。

女性にとって「胸のリアリティ」は、「揺れるか揺れないか」ではない。
「揺らしたくない」だ。
何故なら、揺れると邪魔だし痛いからだ。だから大抵の女性はブラをつける。
そのブラも着けるのがうざったいから、各社ワイヤレスや付け心地を追求している。(ブラをつけるかつけないかの悩み)

これが多数の女性が実感している「胸のリアリティ」ではないか。

胸が大きいと性的にどうこう以外でも、日常生活でも合う下着がない、走ると痛い、邪魔など大変なことがあるだろうと言うのは考えれば想像がつく。

男が女性の胸について語るとき、
「現実は違うのは分かるが、これは創作だから胸を存在の一部としている女性の実感はとりあえず無視している。悪いがnot for meで済ませてくれ」

これが「現実と創作は違うとわかっている認識・態度」だと自分は考える。

しかし戸錠梨香の話の時に、「胸が揺れることがリアリティ(現実に即している)だ」という話が出ていた。
「女性の胸の現実(リアル)とは何なのか」ということに踏み込めば、「胸は揺れる、揺れないではなく、そもそも揺らしたくないものだから、揺れる描写が気になる」という「胸を持つ主体である女性のリアリティ」を無視していることへの不快さは生じるだろう。

ここで出てきた「胸」は、あくまで例示であり、要は「自分とは生きてきた過程や条件が違うために、根本的な認識からズレがある他者の物の見方をどれだけ尊重できるか」という問題だ。

特に「女性の胸」は、
・男からも存在を認識できるし、興味を惹かれやすい。
・女性は自分の一部として付き合っていくもの

であるために、「性差による現実の認識の仕方の差」がかなり出やすい→ゆえに揉めやすい

大きな目の整った容貌。
保護欲をそそる小柄な体。
おしゃれに結わえた艶やかな髪。
一点の曇りもない白い肌。
素材の良さへの自負がうかがえるナチュラルメイク。(略)
そして何よりいけないと思いつつも、誰もが一度は目を奪われるたわわに実った胸のふくらみが少女らしく華奢な体をアンバランスに飾り立てる。
男好きする「設定」が、制服を着て歩いているような少女。

(「月曜日のたわわ」1巻 比村奇石 講談社/太字は引用者)

日経新聞の広告は上記のような「男側のみの認識(男好きする設定)で成り立つ世界」である

作者の描写力が「設定」を的確に伝えているために、それがひと目で伝わってくる。
自分もこの「男好きする設定」はとても不快だった。(女性でも「男側のみの認識で成り立つ世界」を好む人、もしくは気にしない人はいる。この辺りは当然、個人によるグラデーションはある。)

創作はその人の個人的な領域や世界を広げるものなので、「女性が主体となる女性の胸を、男側のみの認識で成り立つ世界の中でメインとして扱う」のも自由だ。
「男同士の関係が、女性側のみの認識で成り立つ世界観の話」もある。

ただそれは「あくまで男(女)側の認識のみで描いた創作だから」という前提を背負って、初めて成り立つ。

「胸は揺れるのがリアリティ(現実)なのだ」と「男側のみの認識で成り立つ世界観」を現実に持ち込めば、女性が
「本当に創作と現実の区別がつくのか?」
「彼らが言う『区別がついている現実』とは、もしや男側の認識だけで出来た『現実』ではないか?」
と疑問や不信を持っても仕方がないと思う。


こう言うと一方的に男が女性の現実を認識できていない、想像すらしていない、ということかと思われるかもしれないが、逆のパターンももちろんある。
「自分の認識では興味が持てないことは雑に扱い、そのことに気付かないまま強い主張をする人」

自分が疑問に思うのはこういう人だ。性別は関係ない。

例えば「月曜日のたわわ」の広告の是非においても、「性被害を受けたことがある人と、性加害やセクハラを娯楽として楽しめる人ではこういう漫画に対する反応が違くて当たり前」という単純な二項対立に持ち込む人がいた。

自分が理不尽な被害に遭ったからこそ、そういうことに意味を見出さないと耐えられなかったり、興味を持つ人もいる。(心理学の本などを読むと、むしろ多いケースではないかと思うが。)
個人的には創作という形でしかそういう傷を発露できない人(しかもかなり露悪的なパターンもありうる)もいるのでは、と思うことがある。

そういう人に対しては、「性被害を受けたことがある人」と「性加害やセクハラを娯楽として楽しめる人」を分けて語ること自体が暴力として機能する。

人の心はとても複雑で、無数のバリエーションがある自分が想像がつかない、心のパターンもある。
しかし人は自分の想像がつかないこと、見えないことは恐ろしく雑に扱いがちだ。
ある問題について熱心に語る人が、他の人の痛みを気づいていなかったり、雑に扱っていたり、無視して踏んでいたりすることはザラだ。

「一人の人間の認識能力」には限界がある。
だから(個々のケースに対する意見や批判は言うとしても)全体に波及する規制には慎重になったほうがいい、と考えている。

「人は自分の関心がないことについては恐ろしく物が見えず、ゆえに雑に扱う、個人の能力・感情にはそういう限界があり、それが当たり前だ」という前提で、規制や法律は決めるものだと思っている。

「自分の認識以外の認識が存在するとは夢にも思わない」のは、認識していないのだから仕方がないが、

自分が想像がつかないこと、見えないことは恐ろしく雑に扱いがち」

この前提を持たない人。
具体的には何の条件も他のケースも論ぜず留保もなく、目の前の物に対する自分の認識や感情、事情だけを基に他人の言動を制限するようなこと(規制など)を、即座に要求する人」
は自分は信用は出来ないし、疑問を持っている。


*日経の「たわわ広告」については「不快さは感じたが、広告の掲載は掲載媒体の自由である」という立場。


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