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ミステリーのクローズド・サークルにおける「男だけが探索に行く問題」をマスキュリズム批評してみた。

◆「自分の血肉になっているゲーム十選」に入れるほど、初代「かまいたちの夜」が大好きである。

「かまいたちの夜」が30周年を迎えた。
 自分は初代の「かまいたちの夜」が「血肉になっているゲーム十選」にあげるほど好きで繰り返しプレイしている。
※好きすぎて犯人視点の記事まで書いている(超ネタバレなので未プレイの人は注意)

 そんな長年大好きな「かまいたちの夜」に、最近になって引っかかりを覚える箇所が出てきた。
 その気になった箇所について「マスキュリズム(男性学)視点」で考えてみた。


◆そもそものきっかけは「十角館の殺人」のある描写

 そもそもこの話を思いついたきっかけは、新本格の金字塔でこれまた何十回読んでいるかわからないほど大好きな「十角館の殺人」の中に、長年気になっている箇所があることだ。
「女性メンバーがずっと料理をしている問題」である。

「こういう場所じゃあ、やっぱり女は損よねえ。体のいい小間使いにされちゃうんだから」

(引用元:「十角館の殺人」綾辻行人 講談社)

 一応↑の言葉のすぐあとに

「男の子たちにも台所仕事、やらせようかな。あたしたちがいるのを幸いにしてお役目御免なんて甘いわよね。そう思わない?」

(引用元:「十角館の殺人」綾辻行人 講談社)

こういう言葉が入るが、このあと男が台所の仕事をすることはない(殺人が起こったあとは、女性陣が台所を立つ時にわざわざ見張るが疑惑があるならむしろ交代でやればいいのでは?と思う)
 コーヒーを飲む時すら何故か女性に頼む。読むたびに「自分で入れないのか」とツッコミたくなる。

「十角館の殺人」は初版は1987年で40年近く前である。
 現代の感覚だと違和感がある描写があるのは仕方がない。本筋とは関係ない描写が現代の価値観とは合わないという理由で問題にするなら同時代の創作しか残らなくなってしまう。
 社会問題を扱った作品でもないし、そもそも創作をどう書くか、何を書くかは自由である。
 自分にとってはかなり引っかかる描写だが、それがあったとしても「十角館の殺人」は面白い。

 明確に描かれていないだけで、力仕事や危険な仕事は男キャラがやっていたのかもしれない(性別によって役割分担をしていたのかもしれない)
「かまいたちの夜」でも殺人が発覚したあと、男だけで猛吹雪の中探索に行ったしな。

 そう考えて、ハタと気付いた。
「十角館の殺人」を読んだ当初から、女性が台所仕事(ケア労働)を引き受けさせられていることには引っかかり続けていたのに、「かまいたちの夜」で男だけが猛吹雪の中、殺人犯を探すという仕事を引き受けさせられている描写には今の今まで何も感じていなかったのだ。


◆危機的状況下では、男は「率先して危機に立ち向かうこと」を暗黙の義務として課せられる。

「かまいたちの夜」で、殺人が起こったあと男性陣だけで「吹雪の中を探索するイベント」が発生する。
 大阪からきた社長の香山だけは、この探索に言い訳をして参加しない。
 そこに至るまでさんざん「犯人と出会ったら投げ飛ばしてやる」など威勢のいいことを言っていた香山のこの態度は、「イキリ野郎のしょうもなさ」という文脈がある。
 だがよく考えれば「女性であれば当たり前のように役目を免除されるが、男というだけで探索に行かなければならないという圧力が働く。その圧力に抵抗すれば蔑みの目で見られる」そういう見方も成り立つ。
 さらに考えると、香山が「犯人に出会ったら自分が倒してやる」という虚勢を張るのは「男は強く、率先して敵に立ち向かわなければならない」という圧力が働いているからではないか。

 この「吹雪の中の探索」で、主人公の透はヒロインの真理に見送られて外に出る時に「千人針でも縫ってもらいたい気分だった」と考える。

(©スパイク・チュンソフト/我孫子武丸)

 この状況は作内で「戦場に送り出される男を女性が見送る構図」に見立てられている。
 男性学が生まれた経緯のひとつに徴兵の義務に対する男女格差への指摘がある。このシーンは「男であれば率先して危機に立ち向かわなければならない」「その圧力(義務)に抗した場合は共同体内部で蔑みの目で見られる」という男性の負荷が描写されている。


◆女や老人も危機的状況下では戦力になる。

 超有名なクローズド・サークル作品「そして誰もいなくなった」でも、若壮年の男だけで探索を行っている。

「ブロアは仲間に入れたほうがいい(略)女たちに話すのはよそう。将軍は頭がおかしいし、ウォーグレイヴの爺さんは敬遠しておこう(後略)

(引用元:「そして誰もいなくなった」アガサ・クリスティ/清水俊二訳 早川書房 P115-116/太字は引用者)

 女性は女性というだけでメンバーから外されるが、マーカサー将軍やウォーグレイヴ判事も様子や年齢に基づいて外している。
「性別以外の特性による基準」も入っている。

 だが別の場面では「男たちの探索」においてメンバーから除外されたウォーグレイブが

「ロンバード君、君はからだが頑丈だし、力も強いだろう。しかし、ブロア君も立派な体格をしている。君たち二人が争えば、どんな結果になるかわからないが、ひと言、はっきりさせておきたいことがある。ブロア君には、わしとアームストロング医師とクレイソーン嬢が味方になる。
 だから、君があくまで反対すると、君のためにはなはだ不利な結果になるのだが……」

(引用元:「そして誰もいなくなった」アガサ・クリスティ/清水俊二訳 早川書房 P186-187/太字は引用者)

女性、老人である自分たちも「取り押さえること」において戦力になる。その結果は目に見えていると言っている。

 さらに先にいって2007年初版の「インシテミル」では、男女関係なく三人一組で「夜の見回り」を行っている。

「インシテミル」も大好きである。

「見回りにおける(物理的な意味以外も含めて)戦力になるかならないか」の観点で言うと、男女に差はないという判断になっている。


◆男のみが探索に行くのは、能力的に差があるからではなく、「危機的状況下では『男は女性を当てにしてはならない』」という規範が男女双方に働いているためではないか。

 こうして見て行くと「探索になぜ男だけが行くのか問題」におけるポイントは、「実際的・物理的な能力の問題」ではなく、男女双方の心中にある「女性の能力に対する不信感(男においては女性に頼ってはならないという圧力、女性においては自信のなさ)」が問題なのではないかと感じる。

 一対一の格闘ならともかく「クローズド・サークルにおける探索で犯人を取り押さえる」などは人がいればいるほどいいと思う。力がなくとも他の場所にいる人間を呼びに行くなど出来ることはいくらでもある。
「人を殺している人間を多勢でもって取り押さえる」という場面においては、ウォーグレイヴが指摘している通り男と女の体格差や物理的能力差よりも人数差のほうが有意に働く。
にも関わらず「女性のほうが平均的に力が弱いから」という漠然とした理由で「危機的状況下において男は率先して探索を引き受けなければならない」という圧力が働くのは、「性役割分担や性規範の内面化」があるからではないか。
 負荷を引き受ける男も引き受けさせる女性も「危機的状況においては女性は当てにならない(してはいけない)」という考えを内面化している。

 1987年に発売された「十角館の殺人」において女性が割り振られた性役割に対して「男の子たちにも台所仕事やらせようかな」「お役目御免だなんて甘いわよね」と不満を言い、抵抗する描写あった。対して、その七年後に発売された「かまいたちの夜」では「男というだけで危険なことを率先してやらなければいけない」という圧力に正面から抗することができない。

 性役割分担において、男の負荷はかなり見えづらく「標準化してしまっている」のだなと感じた。


◆「台所仕事をすべて引き受ける『女らしさ』」が社会によって構築されたものならば、「危機的状況下で率先して危険を引き受ける『男らしさ』」もまたそうである。

 シモーヌ・ド・ボーヴォワールは「第二の性」の序文において、性別を持つ「男性」というカテゴリーを免れて、「人間」という普遍的な自己を表現できる男の特権について語っている。
 この現象の解明にあたり、彼女はもとよりフェミニスト一般は、「女性がいかに構築されてきたか」という問いを立てる方向へ進んだ。
 しかし、そうしたまなざしが「ジェンダー化された主体」としての女性像を見出したとき、普遍的人間としてふるまいながら、やはりジェンダーを持つ限定的存在にすぎなかった男性を対象とした学問分野、「男性学」の誕生はすでに予感されていたと言える。

「現代批評理論のすべて/大橋洋一編」「ジェンダー系批評①男性学の文脈とジェンダー批評の意義」新田啓子p100/太字は引用者」

 つまり、男性が普遍的存在ではない以上、「覇権的男性性」とは女のみならず、社会的に周縁化された男(略)の対概念として作られたということだ。
 この「覇権的男性性」による男たちは、「父」や「夫」や「稼ぎ手」という狭い役割に還元され、他の男性との性的親密性を禁じられる反面、排他的かつ暴力と直結しがちな男同士の絆の中でのみ「健全な」男性性を維持できるとされてきた(略)
 男性学のこうした指摘をフェミニズムの家父長制批判と合わせて読めば、問題は女と男のうち一体どちらが先に救われねばならないのか、などという二者択一的な対立ではないことがわかる。

「現代批評理論のすべて/大橋洋一編」「ジェンダー系批評①男性学の文脈とジェンダー批評の意義」新田啓子p102-103/太字は引用者」

「男=人」である社会において、女性は「女性という特徴」が第一にフォーカスされることで男(=標準的な人)と区別される第二の性であった。「男ではないもの」として社会における役割を与えられ「男ではないものとしての規範」を内面化し、構築されてきた。

 仮にそうだとするなら、男もまた同じではないか。
「人として標準化された男(覇権的男性性)」は、危機的状況下において「自分たち男(覇権的男性性)」以外には頼ってはならず自分たちが事態をどうにかする責任を負わなければならない。それが出来ない男は社会的に構築された「人=男(覇権的男性性)」という枠組みから排除される、そういう圧力が社会の中で形成されたえず抑圧として働いている。
 
そこには危機的状況下において自分たちだけが負担を免除されることに疑問を持たない者たち、またその負担を負えという圧力に抗す香山を滑稽なものとして見る者たち全員が形成しているのではないか。

 ン十年経ってそのことに気付いて、香山さんに申し訳ない気持ちになった(ごめん、香山さん)

 そのうちフェミニズム批評と並んでマスキュリズム批評もさかんになってくるかもしれない。(上記にあげた「ジェンダー系批評①男性学の文脈とジェンダー批評の意義」を読むと、マスキュリズム批評がフェミニズム批評に比べて成立することが難しい事情も色々と書いてあるが)
 香山さんも「恐いし寒いから外に行きたくない」と素直に言えたり(※)真理や他の女性陣たちが率先して「全員でチームを組み、万全の体制で探索をしよう」と提案する。
 そういう世の中になっていくといいな。

※「全員参加」の場合は、参加せざるえないだろうが。ただ自分の気持は、虚勢を張る必要がなく素直に言える世の中が良いよな。


◆余談

 そういう視点で見ると↓の話には疑問しか出てこない。

「天を夢見て」の主人公ライアンが「見えないばけもの」を読んだら

(引用元:「天を夢見て」大雪晟 講談社)

これで済ますんだろうな、ということも含めて味わい深い選考だなと思った。


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