見出し画像

漫画「adabana 徒花」全3巻のここが良かった、ここが気になった。

「adabana 徒花」全3巻を読み終わった。

*ネタバレ注意。


良かった点「女の子同士の百合的友情ものとして最高に美しい」

女の子同士の絆が美しかった。

弁護士の二人以外は周りはほぼ敵(しかも下衆ばかり)だからこそ、二人の関係性の尊さが際立った。

この話は「漫画」という表現方法でなければ、ここまで良くはなかったろう。
小説で読んだら、二人の関係もどこか作り物臭く感じたと思う。
この話は、絵による表現力が、主人公の二人の存在に強い説得力を持たせている。

マコの純真無垢がゆえの「聖なる被害者像」も、ミヅキの献身性も、二人がどれだけお互いを必要としていたか、その閉じられた関係性の美しさも、この表現でなければ成立しなかった。

画像1

(引用元:「adabana 徒花」3巻 NON 集英社)

マコが可愛すぎて、中巻を読むと怒りで震える。
あの結末じゃ物足りない。暁や叔父や父親を惨〇したくなる。

ただ、なあ……。


気になった点:無力だからこそ「聖なる被害者」として描いて欲しくない。

「マコが可愛すぎて、中巻を読むと怒りで震える」

自分がこの話で一番気になったのは、実はこの点だ。

「どこにも居場所がない十代の女の子が、周りの大人から性的、モラハラ的被害を受け続ける。その中で被害者同士の関係にのみ居場所を見出す」という設定は、桐野夏生の「路上のX」と共通している。

ただ「路上のX」が「adabana 徒花」と決定的に違う点は、彼女たちを「無垢な被害者」として描いていないことだ。

この話が描いているのはそれらのテーマではなく、路上で生きる少女たちだ。二人の主人公、真由もリオナは二人とも大人からの性的被害を受けており、そのことによって深刻な傷を負っている。
だが、その傷は彼女たちの一部分にすぎない。彼女たちはその傷を生きるだけの存在ではない。

「路上のX」で出てくる真由、リオナ、ミトは時に意味のない嘘をつき、時に親切にしてくる大人をはねつけ、自分たちを利用する男を逆に利用するしたたかさを備え、能天気で考えなしなところもあり、お互い同士で不満を持ち、諍いもする。

彼女たちはそれぞれ狡猾で自分の意思を持ち、路上で生き抜こうとしている。
その関係性は、お互いに自分本位なところもある。

大人から見て「保護欲を掻き立てられない可愛くない存在」なのだ。

この問題について「対大人において、十代の少女は特に性的なことについて被害者となりやすい。そういう事実があるからこそ、少女を『聖なる被害者』として描いて欲しくない」と常々思っていた。

「子供は可愛く純真無垢だから」守られなければならないのではない。

可愛げがない、ずるがしこく、もしくは余りに考え無しで、時には自業自得のように見えるようなことをし、大人を舐め腐っているはり倒したくなるような子供でも、子供は子供であるというだけで、大人にとってはその人格や意思を尊重しつつ守るべき存在だ。

そういう自分から見ると「少女(子供)に汚れのない聖性を託すことも一方的に扱うことではないか」とつい思ってしまう。

重要なことなので細かく言うと、「無謬の被害者像」が嫌なのではなく、「少女は被害者になりやすいからこそ、その点だけをクローズアップして欲しくない」のだ。

だが、その傷は彼女たちの一部分にすぎない。彼女たちはその傷を生きるだけの存在ではない。

「その傷を、その被害を受けるだけの存在として描かない」というのはどういうことなのか、ということは「路上のX」の感想で詳しく書いた。


真由とリオナは、男たちが大人たちが、自分たちを一方的に品定めし判断し、「こういうものだ、こういう存在だ」と規定することに拙い言葉で怒り続ける。

「性的存在」として見る、「無謬の被害者像として見る」は「一方的に相手を『見る』」という意識において、意外と同じ線上にある眼差しなのではないか、とこの問題を考えるたびに思う。

彼女たちは社会の中では無力で、庇護されなければならない立場に立たされている。だが、その立場の中でも考えて、狡猾に立ち回って、時には泥水をすすってでも生き抜こうとしている。

そういう主体性を持つがゆえに、彼女たちは「『自分たちを一方的に見て判断していい存在』と思っている存在」として、大人を、男を、冷静な眼差しで見返し、(自分にとっての加害者としてだけではなく)どういう人間かを判断している。

「路上のX」で最も印象的なのは、彼女たちが大人を見返すその視線だ。

(この辺りは例えば、「adabana 徒花」においてマコが父親をどう思っているか、ミヅキが母親がなぜそういう人間になったのかと、「親を一人の人間としてどう思っているか」客観的に判断する視点がないことと対照的である)

「路上のX」がさらに凄いのは、そういう視線を隠さない真由を見て、リオナが「これは大人(男)に嫌がられる」とわかって心配しているところだ。

彼女たちは「一方的に『見られる』ことを拒み、視線や判断を返してくる少女」が大人にとっていかに「面白くない存在」であるかも、わかっているのだ。

そういう「血肉を備えた彼女たち」をどう守っていくかを考えるのが、自分たち大人の役割のひとつだと思う。

画像2

(引用元:「adabana 徒花」3巻 NON 集英社)

この言葉には同意しかない。

「adabana 徒花」は、自分がこういう「大人に傷つけられる少女」を描く創作において常々感じていた、そして「路上のX」においてそれが解決されていると感じた「大人から子供(少女)への一方的な視線」という部分においては残念に感じた。

ただそこに特にフォーカスせずに読めば、二人の関係の美しさにひたすら心打たれる話だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?