「『革命』の上に『反』をつけるだけで相手を断罪し、自己の立場を絶対化し得るような意識を軽蔑をこめて批判する」←それな。

李兄は、解放後のこの方、とくに解放直後の左翼万能主義の状況のなかで、『革命』を口にするだけで、何も考えなくてすむようなアタマ、意識構造のことをよくいっていたでしょう。
『革命』の上に、『反』をつけるだけで相手を断罪し、自己の立場を絶対化し得るような意識を軽蔑をこめて批判していた。

(引用元:「火山島」6巻P110 金石範 文藝春秋/太字は引用者)

 相変わらず「火山島」を読んでいる。
 上記のセリフは、梁俊午(ヤン・ジュノ)が主人公の李芳根(イ・バングン)を評した言葉だ。
 自分は李芳根という人物が余り好きではないが(穏当な表現)、この言葉には共感した。「いいね」を百叩きくらいしたい。

 芳根は済州島の裕福な家の出だが、日本支配の時代に天皇の銅像に小便をひっかけた罪で留学という態で日本に追放される。
 日本でも思想運動をした罪で捕まるが、拷問を受けても転向せずに戦後済州島に戻ってきた。
 つまり根っからの朝鮮半島統一・独立主義者で、思想や心境は左翼である。にも関わらず、済州島の反政府組織を上記のような批判的な目で見ていて、入山に踏み切れずにいる。

 自分も、例えば「保守・リベラル」のような思想背景に沿ってしか問題を考えられないような「アタマ・意識構造」が凄く苦手だ。
 朝鮮半島の統一を放棄した政府を打倒する思想を持っているにも関わらず、反政府組織(党)の意識構造も批判的に見る芳根の姿勢に凄く共感する。
 梁が言うように、「その思想を持っていながら、その思想を体現する組織を批判する」のはとても勇気がいることだと思う。

 何かを絶対化しない、自分の頭で考えた時におかしいと思ったことは大きな目的は合致したとしても、立ち止まって考える。
 こういうことが出来る人が信頼できる。

 しかし党が政権を握ったとき、『革命国家』の絶対性のもとに個人は存在しえなくなる。
 名実ともに国家イコール組織は万能、神となり、理念にもかかわらず、支配せず支配されずの関係、自由は存在しなくなる。
 すべては全体になる。

(引用元:「火山島」6巻P118 金石範 文藝春秋/太字は引用者)

「個人という概念が最終的には全体に包摂される思想」は、自分にとってはまったく相いれない思想なので芳根の葛藤は痛いほどわかる。

 政治思想に限らず、ある概念を絶対的なものとして信奉するようになると、生きた人間(個人)の内実は問題にならないと思うようになる。(自分のも他人のも)
 全体が個人を包摂するようになるのだ。
 絶対化された概念に比べれば、個人は曖昧模糊とした矛盾だらけの不完全な存在なので、自分の頭で考えるよりもそれに従っていたほうが楽だし、正しいように感じてしまう。

 芳根が持っている「支配には抵抗するつもりだが、抵抗組織の精神性にも批判すべき点があり受け入れられない」という矛盾に対する個人の葛藤以上に重要なものは、自分にとっては存在しない。
 この葛藤を軽視するものや考え方が嫌いだし、怖いと思う。

「ひと目でわかるわかりやすいもの」が蔓延したりもてはやされたりする中だと、こういう個人の葛藤や曲がりくねった思考を守っていくのは難しいと思うこともある。
 ただ結局選べるのは「自分が何をするか」だけなので、大事だと思うものは自分で守らなければいけない。

 芳根はどうするのかな。
 最終的には入山するのだろうけれど、どんな運命を辿るのか心配だ。

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