秀岳館高校の会見の冒頭30分を見た感想を、大人として書いておきたい。

https://www.youtube.com/watch?v=MG-vbROgA1c

この問題は生徒間の暴力も含めまだ全容が見えていないが、とりあえず5月5日の学校側の会見を見た感想を書き留めておこうと思った。

教頭の一人である白井勇氏が時系列で学校内の対応を説明した冒頭30分を見て、それ以上見る気がなくなった。
残りは質疑応答なので、学校側から主体的に出された会見は見たということでいいだろう。

この件における「大人側の欺瞞」が何であるかが分かりやすかったので、興味がある人は見ることを勧めたい。

なぜ動画を上げた子は、いきなりネットに動画を上げたのか。
自分がこの件で一番始めに気になったのは、ここだ。

釈明動画で本人が語った「感情的になった」という説明をとりあえず受け入れるとしても、そのあとに監督のミーティング時の発言を投稿したことは確信犯だろう。(同じ子とは限らないが、危機意識を共有している。)

①周りの大人が一切信用できない。
②だから外部の大人に判断を求めた。

こういう可能性が高い。

「相談もせずに動画をいきなり上げた」
この行為自体が、「信用できない」という子供たちから周囲の大人たちへの評価なのだ。

この評価を受け止める気持ちがあれば、
「不信を抱かせてしまったことへの謝罪、および信頼回復に努めることへの決意表明」
それが建前か本音か以前に、話の辻褄として対応はこうなるはずだ。

大人同士であれば不祥事や外部に向けての内部告発などがあったら、内部の人に「何かあったら相談して欲しい」などと言わないだろう。信用できないから外部に告発したからだ。

ところが子供が相手だとそうはならない。「小さなことでも周りの人間に相談して欲しい」と言い出す。
「信用できない」という子供の判断を、まったく受け止めていない。
これほどシビアで冷徹な評価を突き付けられたのに、子供たちからの評価を受け止めず自分たちの一方的な見方を押し通す。

このことからわかる通り、会見内容も大人側の物の見方に終始している。

「スッキリ」の放映直後にネットに上がった、4月22日(金)の朝のミーティングの録音(監督が「自分が被害者だ」と発言したもの)を聞けば、監督と子供たちの関係がどういうものかはすぐにわかる。
にもかかわらず、釈明動画のアップの経緯を「子供に何べんも聞き取りをした」ということを根拠に、強要の要素は含まれていないかのような言い回しで説明し(30分54秒あたりから)「学校側としては事実として受け止めている」と言っている。

例えば冒頭はこう始まる。

「まず21日の夜、生徒四名と監督で話し合いをして、何らかのアクションを起こさなければならないと……」(31分00秒あたり)

上記の録音を聞き、暴行が二年間で38件(職員→生徒は25件)も報告された部活内で、監督と生徒が「話し合い」が出来るのか。

また「何らかのアクションを起こさなければならない」と最初に言い出したのは誰なのか、ということは説明しない。
指導者から学生への暴行、指導者から学生への恫喝が判明しているこの件で「何らかのアクションを起こさなければならない」と言い出しのは誰であるかは非常に重要だ

法などの絡みで明言できないのであれば「生徒からの聞き取り」を強調するのではなく、「学校側が今のところ把握している情報だけを述べる」などの言い回しになるはずだ。

あたかも「話し合い」によって自然発生的に「何らかのアクションを起こさなければならない」という話が出たかのように語り、しかもそれを「生徒からの聞き取りを根拠にしている事実」と言っていることに、疑念と不信がわいた。

22日の朝のミーティングで「事実と違う内容も上がっているので、動画をアップするのに協力してくれと監督のほうから言われた」ために、12名が協力して動画を作成したという説明をしている。

しかし監督が自分の声だと認めた(同席したコーチ陣も認めた)音声の内容を聞くと、釈明動画の作成が提案された経緯を「動画を上げるのを協力してくれと監督が言った」と説明することは疑問を感じる。
音声という証拠がないならまだしも(是非はともかく)、あの音声があってなぜこういう説明をするのか。

釈明動画のアップまでの経緯の説明は、終始こういった物の見方に基づいている。

生徒が大人たちをまったく信用せず、ミーティングを録音しアップしたのは当たり前だ。
部活という構造、学校という構造、生徒はその構造に大人たちが縛られ、子供を守る気、どころか子供のことなど何も考えていないことを見抜いている。

ミーティング時の監督の発言について警察が取り調べをするようなので、法の上で強要や誘導とされうることがあったかは司法の判断に任せるしかない。
だが一般的に考えれば、流出した音声のような関係で行われたことが「話し合い」や「協力してくれという依頼」になりうるはずがない。
そういうあからさまに欺瞞を子供たちに繰り返しながら、建前が取り繕えていると思っている様子を見ていると、馬鹿にされているようにさえ感じる。

動画を上げた子たちは、周りの大人を信用していなかった。
だから、外にいる自分たち大人に問うたのだ。
「これ、ヤバくね?」と。

子供の時の自分が、「ヤバくね?」と動画を上げたとしたら、大人に求めることは、とりあえず自分の「ヤバくね?」という質問に答えて欲しい、ということだ。
一足飛びに色々判断して何とかしようとするのではなく、自分が質問しているのだからとりあえず答えて欲しい。
まずはそういう気持ちがある。

だから、大人の自分がこの動画を見てどう思ったかを書きたい。

ヤバいと思う。
大人の指導者が子供を暴行する、というだけでもヤバいのに、

①暴行されている子は後ろ向きになっている。
②被害者はサッカー選手なのに、加害者は腿の付け根の辺りを蹴っている。

この二点がひどい。
被害者の子は釈明動画で「自分がコーチを馬鹿にするような発言をしたから」と言っていたが、「発言にカッとなってつい手が出た」なら、被害者が後ろ向きになっているのが不思議だ。
「蹴られるために後ろを向く」
こういう段階を踏んでいる。

だがサッカー部という構造の一部になっている人間には、この動画のヤバさがどこにあるかがわからない。
だから場を管理監督する責任者が「俺は被害者」と言い出し、その言い分が通じると思っている。
そしてサッカー部という構造を包括する学校という構造の中にいると、その音声を聞いても「話し合い」という言葉を使い印象を操作出来ると思ってしまう。

構造の中では当たり前の言動(ルーティン)を繰り返し、それのどこがおかしいかもわからない。もしくはわかっていても見ないふりをする。
そういう中でもなお「何でも話してくれ」と、表面だけを取り繕おうとする。
自分は子供のとき、こういうことに付き合わされることが我慢できなかった。

子供のころ自分は、大人は一種の機能だと考えていた。
子供には目に見えることも触れることも出来ない、巨大な機械(システム)を駆動させるためにいる機能だ。
よくわからない機械が生み出したルールで成り立っている子供の世界でそれなりにやっていく、たまにその機械が訳の分からない動きで子供(自分)の世界に介入してきたら、適宜合わせた対応をしてルーティンに戻るのを待つ。
それ以上の関心を大人に抱いたことがなかった。

大人の中にも、個人ではとてもいい人もいる。というより大抵の大人はそうだ。
だがその個人としてのいい面悪い面は、大きな構造の中に入ったときに、その個性を失う。少なくとも子供が期待するレベルで、その個性を保っていることは出来ない。

自分も順当に「巨大なシステムを回すだけの存在で、そのシステムに逆らえない大人」になったが、自分が子供の時に考えていたことは概ね正しかったと思っている。

それが正しいとして、子供の時の自分であれば「大人たちは一体、自分たちがせっせと作った構造に子供たちを巻き込んだ不始末をどう考えているんだろう?」と考えると思う。
この問題にこだわりが強いのはそのせいだ。

わからないことはわからない、出来ないことは出来ない、システムに逆らえないなら逆らえない。欺瞞があるなら欺瞞がある。保身なら保身であると、なるべく素直に感じたことを話したい。
親や教育者、指導者ではない自分が子供に出来ることは、せいぜいそれくらいだ。

ということで、学校側の記者会見を見た段階ではこう考えたことを書いてみた。

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