「真実よりも自分が気持ちよい情報を信じたい」状態になるかは、頭の良さは関係なくその人の置かれた状況に左右される。
11月4日(土)読売新聞の朝刊6面に掲載された、新川帆立のインタビュー「デマ信じる心理に迫る」が面白かった。
読売新聞オンラインで掲載されている小説「エビデンスは何ですか?」に関連する話だった。
「フェイクニュースなど信じる人が馬鹿だ」と切り捨てるのではなく「そういう人には何か信じてしまう理由があるのではないか」という見方に興味を引かれた。
続いて著者自身の経験を語っている。
東大卒の弁護士という一般的には優秀だと思うような人でも、「偽の情報を信じてしまう時」がある。
足下がぐらついている状況だったり、不安定な環境に置かれていたり、周りに確かなものがないと思う状況の時は、それが何であれ「自分の認識、見える世界を補強してくれるもの」「確かだと思わせてくれるもの」を信じたくなるのではないか。
環境や心が安定している時はその情報を疑うことができても、不安定な時は「信じたい気持ち」に抵抗出来ない、薄々おかしいなと思っても「それを信じること」を拠り所にしてしまうのかもしれない。
どんな人でもその罠にハマってしまう危険がある。
少し前に上の記事が話題になった。
自分がこの記事を読んだ感想は「この人は、ずいぶん人から雑に扱われることに慣れているんだな」というものだった。
雑な対応をされていたことに文句を言わず、むしろ当時は満足していたように語っている。
「物事や他人を雑に扱う人は、人から雑に扱われることに慣れているのではないか」と記事を読んで思った。
どんな雑な対応でもどんなネガティブな反応でも、完全に無視されるよりは自分が存在すると実感させてくれる。
自分の認識や存在をクリアになると実感させてくれる反応を引き出すために、言動が過激になる。過激になるということは、「自分の周りのものを単純化する=雑に扱う」ということだ。
福本伸行の漫画「銀と金」で、「地下に人を飼っている」蔵前が「人間は周囲との関係で正気を保っている」と語るシーンがある。
孤独は「寂しさ」など感性に影響するだけではなく、認識をぼんやりさせ周囲への関心を希薄にさせやすい。孤独な曖昧模糊とした状態に置かれた時に、強い刺激のあるもの(反応)を与えられたら、その強烈さに人は抵抗できない。
「心の穴を埋める唯一の現実」に支配されてしまう。
この元大学教授のように物理的に閉じ込めらた状態なら「そうなっている」とわかりやすい。だが、自分の心の中がこういう状態になっていると自分ではなかなか気づけない。
周りに人がいるからと言って「心が閉じ込められないとは限らない」ところが難しい。
ネットを使っている限りは避けられない問題だと思うので、自分もこれまで自分のために対策を考えてきた。
一度ハマってしまうと抜け出るのが難しいと思うので、今後も出来る限り気をつけたい。
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