「月曜日のたわわ」の広告がなぜ不快なのか。

「読まないで何か言うのもな」と思ったので、「月曜日のたわわ」の1巻を読んでみた。
kindle版は無料公開していたので、たぶん他のコンテンツでも読めると思う。

普通に面白かった。

「自分の性的魅力を自覚している巨乳童顔の女子高生や巨乳美人の後輩が、何故か自分に懐いてくる」
という部分だけを取り出すと、「男の妄想漫画」に聞こえるが、読んでみると意外とそれ以外のシチュエーションも作りこんである。
女性でも面白いと思う層はいると思う。


「女性微優位」の状況なので、女性にも「安心」の漫画ではある。

自分が「この漫画は、女性も面白いと思うのでは」と感じた点は二つある。

①性別がどうこう以前に、アイちゃんと後輩ちゃんという存在そのものが可愛い。自分もこんな子に懐かれたい。

(「月曜日のたわわ」1巻 比村奇石 講談社)

*可愛い……。

②アイちゃん、後輩ちゃん視点で「自分に絶対に好意があって何でも言うことを聞いてくれるのに、手を出さないと確信持てる。それくらい自分に好意を寄せている男が側にいるのは心地がいい」という状況を楽しめる。(←少女漫画の当て馬でよく見る現象)

②の状況は、自分も「なくはない」と思っている相手(男)がこちらの気持ちがわからずヤキモキしているので、さてさてどうするかと思っている、恋愛の一番の醍醐味だ。

要は「付き合うか付き合わないかに行き着く五歩くらい手前の状況」なのだが、この漫画は、主人公(男)と女性たちがお互いの暗黙の了解でその状況を楽しんでいる。

ここで言う「付き合うか付き合わないかに行き着く五歩くらい手前の状況」とは何なのか、と言うと「女性が微優位の状況」だ。

前に「サイゼで喜ぶ彼女」の漫画は、「男向けの妄想ではなく、女性向け女性優位の漫画ではないか」と書いたことがあるが、方向性としては同じだ。

この漫画を女性キャラ視点で見ると、(恋愛的な)力量がはっきりしているために脅威を感じない相手に対して、相手のことを気にせず好き勝手にふるまえる、そして自分の好き勝手なふるまいに対してさえ、相手が一挙手一投足に反応してくれることへの快感を描いている。
熊が人間相手に猫のフリをして、相手がびくびくすることを楽しむ、みたいなものだ。(略)
いわゆる「女性向け女攻め恋愛漫画」だ。

「月曜日のたわわ」もこれと同じで「現実で考えると危うい部分」(そうは言っても男は本当に手を出さないのかなど)を、「暗黙の了解による状況設定」にしているので、女性も安心して(?)楽しめる漫画だと思う。
この設定自体が漫画の世界観を作っているので、この設定が破られることはない(と思う)。


女性が主体として自己の性的魅力を解放しているのか、(男にとっての)性的な客体としてのみ存在しているのか、というのは特に創作においては判断が難しい。

自分から見ると「サイゼで喜ぶ彼女の漫画」は「女性が男にサイゼに連れて行かれる漫画」ではない。
「女性が男をサイゼに連れて行く漫画」だ。それを批判することは、女性の主体性(選択、判断、評価、行動の自由)を抑圧してしまう。

また創作においては、生物学的な、もしくは性自認が自分と同じ性に自己投影するとは限らない。性自認が男だからと言って、創作で男キャラに自己投影するとは限らないし、女性だからと言って女性キャラに自己投影するとは限らない。
創作と現実を結びつけて、性によって主体と客体と分けるのは不可能だというのが自分の意見……意見というか、そんなに厳密に切り分けている人が実在するのか、と不思議だ。(自分と同じ属性のキャラには必ず自己投影していて、異なる属性を持つキャラは必ず客体として見る人。いるのか?)
まあ仮にそういう人がいたとしても、全員がそうではない。

ただ上記のように考えている自分でさえ、あの広告にはいわく言い難い不快さを感じた。
この不快さはどこからくるのか、ということをこれから考えたい。


広告の不快さは「否応なく自分の性的な部分を意識させられる」という感覚から生じる。

自分はこの広告に不快さを感じる層は、二種類いると思っている。

①「月曜日のたわわ」のような漫画に、強い性的興奮を感じる人。(要は性的にドストライクの層)
②女性が性の対象として、男から一方的に扱われているように見える人。

一見真逆に見えるが、「否応なく自分が性的な存在であること、もしくは自分の中の性的な部分を『意識させられる』」点では同じである

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