「光る君へ」は自分が苦手な「独裁国家」のようなので、観るのを止めることにした。

*タイトル通り、批判的な内容です。

 第13回「進むべき道」の途中まで見て、「光る君へ」を見ることを止めることにした。
 その先を見ていないのでこの後の展開はわからないが、まひろが子供に文字を教えるシーンを見て、自分はこの物語を楽しめないと思った。

 まひろが「人に字を教えることで世の中を変えたい」と本気で考えているなら、あの方法は取らないと思う。世の中を変えるためには、なるべく多くの人に文字を教えなければならない(もしくは影響力のある人を、自分の運動に引き込むなど他にも方法はあるが)
 だがまひろは「字を教えるという方法で世の中を変えるには、どうしたらいいか」と目的から方法を模索した形跡がない。
 
自分であれば、あの方法で「人に字を教えることで世の中を変えたい」と言われたら、ふざけているのか、何も考えていないか、そもそもやる気がないか、どれかだと思う。
 方法を模索してやってみたが、結果として一人の少女にしか教えられなかった。それなら「自分が出来ることをするしかない」という結論を出すのも(ある程度は)わかる。
 まひろが「役に立たないことをしている」と言われるのは、「自分に出来ることしかしない」からではなく「(目的に達するために)自分に出来ることを考えないからだ」と思う。

 前回の兼家との対面といい、まひろには「他人から見て自分の言動がどう見えるか→他人の視点」が存在しない。
「考えることが苦手な(または面倒くさい)自分に配慮して、自分がその場で思いついただけのことを世の中が受け入れて変わるべきだ」と思っているのでは、と思ってしまう。

 まひろはナチュラルに「周り(世界)が自分に合わせるべきだ」という姿勢で生きている。自分から見るとかなり異様な人物だ。

 こういう「他人という概念がなく『自分=社会(世界)』だと思っている人物」が主人公で、物語全体が主人公の認識に忖度して接待している話のことを『独裁国家』と呼んでいる。(※1)(自分は苦手なので「独裁国家だ」と思ったら読むのを止めるが「独裁国家だから駄作、良くない」というわけではない。創作なので独裁国家でもいい)

「中央公論4月号」に掲載された「権威なき時代のSNS 論争の作法は失われたか」で、「SNSに代表される現在の意見の表明の問題点は、公私の区別を見失っていることではないか」と書かれている。

「真の自己」が絶対に正しいのであり、外側のルールこそが変わるべきだという運動が、新たな政治を生み出したと(フランシス・)フクヤマは考える。

(「中央公論 4月号『権威なき時代のSNS 論争の作法は失われたか』」先崎彰容 中央公論社 P57 太字は引用者)

「『真の自己』が絶対に正しいのであり、外側のルールこそが変わるべきだ」というのは、まひろの発想そのものだ。

 私が考えた「字を教える」という方法によって、それが他人から見たら効果をろくに考えていないやる気のなさそうな「そうはならんやろ」と思う方法であっても、世の中(※2)は変わるべきである。何故なら「私」が考えたからだ(文字にすると怖さが倍増するな)

「独裁国家」は(自分が見る限り)眼につくようになったのは最近だ。「他人を概念としか認識できないSNS(ネット)」の影響もあるのだろうか。

 もしかしたら、そういう時代性を取り入れて表している作品なのかもしれない……がここでリタイアである。

※1 「独裁国家」はコンテクストのコントロールによって、物語が主人公に忖度し接待している。

※2 こういう発想の人は、たぶん「社会」や「公」を自分を抑圧するふんわりした概念としてのみとらえており、その最小単位は「他人」であるとは考えていないのだと思う。他人にとっては自分もまた「社会(個への抑圧)として機能している」という発想もない。

 個人が肥大化し、公的世界に変更を要求している。ここでもまた公私は溶解し、「私」の違和感がそのまま「公」的な不平等意識に直結する。
 決定的な特徴は、政治的な左右の違いにかかわらず、両者が「不寛容」だという点だ。

(「中央公論 4月号『権威なき時代のSNS 論争の作法は失われたか』」先崎彰容 中央公論社 P58 太字は引用者)

「社会(他人)はすべて私を不当に抑圧するルールという概念だ」と思っている同士は、それは譲らないし対話もしないだろう。

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