「『炎上』とは何なのかは、炎上したことがある人間にしかわからない」
ふぅの「七週目を歩くエルデンリング」を見ていたら、唐突に「七、八年前に炎上した時のこと」を話し出した。(16分35秒辺りから)
「推しの子」の黒川あかねが炎上した回を見て、思い出したらしい。
「俺は有馬かな推しですから」「俺にはビンタしてくれる人がいないし」という話も交えながら、そこまで深刻な感じでもなくいつも通りの調子で話をしている。
にも関わらず、冒頭の部分を聞いて重い気持ちになった。
ふぅは原作ファンで、原作の「あかね炎上」は読んでいるし、「今回はアニメはここまでいくだろうな」ということを考えて見ている。
観終わったあとも「面白かったな、じゃあ編集作業に戻るか」と思うくらい、自分自身は何でもないと思っていた。それなのに突然体が拒否反応を示した。
↑の語りを読んでも「体の震えが止まらなくなった→当時のことをいきなり思い出した」という順番だ。
実際の話を聞けばわかるが、本人はどちらかと言えば自分の経験をネタに消化しようしていて、それに成功していると思う。(いいか悪いかはおいておいて)
だから本人の狙いや思惑とは別に、自分が勝手に滅入っただけだ。
正直なことを言えば『気が滅入る』レベルではなく、心が冷え冷えとしてしまった。
特にふぅが「俺も調子に乗って煽るようところはあったし(悪いところがあった)」というのを聞いていて何とも辛い気持ちになった。
どんなに悪いところがあったにせよ、一方的に人に対して中傷を行ったり、ましてや殺害予告を送るなど許されない。
それは炎上した本人の問題とはまったく別の問題で、そもそも結び付けて語るものですらない。
でも「炎上を経験した自分」としてやっていくにはそう消化するしかないのだろうと思う。
これも文章でこの部分だけを読んだら、「そんなことはない」と思ったと思う。
炎上の理不尽さや、自分に何等かの要因があったとしても、その理不尽さに個人が巻き込まれる辛さはわかる、そう思うと思う。
だが炎上経験やその時の心境の話を聞いたうえで「ほんとああなるんだよ」というふぅの語りを聞いていると、「炎上を経験したことから生じるなんらかのもの」は、同じ立場を経験した人にしかわからないかもしれない、と思えてくる。
炎上についてのふぅの話を聞いた時、村上春樹の「アフターダーク」の中で、登場人物の一人である高橋が「子供のころに置き去りにされた経験」について語るシーンを思い出した。
ふぅが言っていることと高橋が言っていることは(自分の中では)まったく同じだ。
ここで高橋が言っているのは、「孤児になると、周りから永遠に孤児として見られる」ということではない。他人はすぐに忘れる、もしくはリアルタイムではないことはさほど気にしない。
「孤児になったこと」による本人への影響(ソフトウェア)の話をしている。
「ソフトウェアが汚染される」という言い方は極めて露悪的だが(この『悪』の部分が「アフターダーク」の主題なのでこういう言い方をしている)どこか深い部分を大きく損ねられたということだ。
それは普段は見えないし、本人も感じない。
高橋が言うように「いちいち考えでも仕方がないことだからさ。今日から明日へと、ごく普通に生きていくしかない」からだ。
だがそれでも、その部分は損ねられたままずっと残っている。
だからある日、何かをきっかけにして噴出してしまう。
ふぅの話を聞いても「推しの子」のあかねのエピソードを見ても、仮にその人に落ち度があったとしても、大勢の人間の力でその人を「死にたい」と思わせり、何年経ったあともマウスが持つ手を震わせるような影響を与えていいはずがないと思う。
自分も最近はもう十分言われつくされていることや一対多が形成されていると思った個人的な話題(政治や経済の問題は別だけど)にはなるべく関わらないようにしている。
どうしても「批判」をしたいなら、ちゃんと長文で意見を述べる。
そう決めておくと、いざ長文を書こうとした時点でそういう労力を割いてまで言及するほどの興味がないことに気付く。
少し前からそういうことに気をつけようと思っていたが、これからはますます気をつけようと思った。
※余談
自分は「推しの子」はあかね×かな推しだ。
あかねみたいに、憧れからライバルとして近づきたい「あの人を超えたいけれど自分なんかに超えられないあの人でい続けて欲しい」という心性を持つキャラが大好きなのだ。(「サリエリ型」と呼んでいる)
「AKB49~恋愛禁止条例~」のMAYA→愛や「天」の僧我→赤木とか大好きだ。
自分の脳内設定では、あかねは「かなの好きな人だからアクアに興味を持っている」という設定なのだ。(解釈違いの人、スマン)
今はまだ余り見かけないが、舞台編が始まったら「あかかな」が増える(はず)。
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