「被害者はなぜ、どの問題でも被害者で居続けようとするのか」→「どの問題ででも」という認識にズレがあるのではないか。

気になるので自分の考えをまとめておきたい。

*以下、上の匿名ダイアリーを「上増田」、下の匿名ダイアリーを下増田と呼ぶ。

端から見ていると、オープンレター側と反?オープンレター側の話は噛み合っていない。

反オープンレター側は
「最初に受けた性差別の被害と、オープンレター自体の問題は別問題。だからオープンレター自体の問題では、オープンレター側を批判する」

これに対してオープンレター側は
「そもそも最初の性差別被害がなければ、オープンレター自体を出す必要がなかった。オープンレター自体の問題は、オープンレターを書かざるえなかった被害者の立場を前提として語るべきだ」

「この件で被害者だとしても別の件では加害者となることもありうる」「最初に被害者になったら、永遠に被害者なのか?」という反オープンレター側とは、そもそも前提となる認識が噛み合っていない。

オープンレター側にとっては「派生案件も含めて、そもそもが性差別の被害を受けた、という前提から始まっているひとつの問題」であり、「オープンレターから端を発したひとつの問題については、常に被害者であることが前提」という認識なのだと思う。

対話をするとしたら

①オープンレターが訴える性差別被害と、オープンレター自体が持つ問題は分けて考えるべきか。

②オープンレターが訴える性差別被害がなければ、そもそもオープンレターが存在しなかったのだから、被害者が、被害を受けて傷ついた状態でやむえず出さざるえなかったものとして、オープンレター自体の問題も語るべきか。(たぶん、上増田もこういうことが言いたいのだと思う)

この認識をそろえずに、お互いがお互いの認識を当然のもの(前提)として話しているのでまったく話が噛み合っていないように見える。

下増田が言う「批判者は誰も男女の話なんてしてない」というのは、正に①の「オープンレターが訴える性差別被害とオープンレター自体の問題を切り分けている認識」で、それを「当たり前」と思ってしまうところが、オープンレター側からすれば、自分たちはそもそも男女の話(性差別被害の話)を一貫して話しているのに、なぜ突然一方的に「誰も男女の話をしていない」になってしまうのか、ということになる。


ここで表題の「被害者がなぜ、どの問題でも被害者で居続けようとするのか」という疑問に戻ると、

①そもそも「どの問題でも」という認識の仕方に違いがある。(被害者はひとつの問題として見ている)
「批判者は誰も男女の話なんてしてない」という言葉に象徴されるように、いつの間にか性差別被害の話が前提から消滅させられてしまっているために、被害感情が癒えない。

この二つの複合だと思う。

被害者であっても「問題を切り分けて考えられる」ようになるためには、被害者が冷静に物事を考えられるような心の余裕と安心が必要になる。
「心の余裕と安心」は「話を聞いていもらうこと、被害を受けた自分の感情を認めてもらうこと」で生まれ安くなる。

「心の余裕と安心」があって初めて、被害を受けていない人間と同じように落ち着いて物を考えられるようになって、さらにその場を形成する人への信頼があると色々な意見を聞くことが出来る。

政治などならばまだしも、個人が受けた被害の話では信頼関係がなければ批判は批判として機能しない。

オープンレターは社会問題も包括しているから個人ではなく運動全体への苦言というのはわかるけれど(ただその割には、被害者個人に対する批判も多かったのは上増田が指摘しているように問題だと思う)それにしても性差別を受けた被害者が被害を訴えている状態で「批判者は誰も男女の話なんてしてない」と言われると、「では、何の話に対する何の批判なのか?」という話になるのは尤もに思える。

自分もオープンレターについては色々と疑問があり、反対寄りの立場だが、意見を言うにしても批判をするにしても、前提からして噛み合っていないと意味がないんじゃないかなと思ってしまう。


人は自分の意見を言いたい(認めて欲しい)という欲求が先にあるので、「人の話を聞く」のは凄く難しい。

特に今の時代はみんな余裕がないから仕方ないけれど(自分も余りないし)「どんな意見を表明しても大丈夫だという信頼関係があり、批判が批判として機能する自由な言論空間」は、構築するのが難しいんだなと今回の件で改めて思った。


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