見出し画像

「『人を理解しようとすること』は時に暴力にもなる」という前提をきちんと描いているのが「葬送のフリーレン」の好きなところだ。

 自分が「葬送のフリーレン」で最も好きな点は、「人をわかろうとすること」を無条件に「いいこと」として肯定せず、魔族を通してその危険性と暴力性を描いているところだ。
 多くの場合、人同士の間で起こることもさほど変わらない。

「『人を理解する』とはどういうことか」
という疑問を持たず、「自分の認識で相手をはかることが人を知るということ」と勘違いしたまま他人の心の内に踏み込めば、相手を致命的に傷つける。

 他人の意見を聞くときは、自分の認識を(なるべく)外してフラットな状態で聞く。
「他人の意見を理解する」ための前提であるこれですら大変なのだから、「その人を理解する」のは現実ではほぼ不可能だ。(その不可能に近い困難さを無視して、「わかり合う」という言葉をイメージだけで無条件に「良いこと」としている言動を見ると背中がかゆくなる)

 マハトとグリュックの関係には、「『人を知る』という試みはどういうもので、その過程はどうなるか」がよく出ている。
 お互い通じ合あっているようで通じ合わない、利用し合い裏切られ傷つけられ、お互いのことがよくわからないまま何となくずっと一緒にいて、最後の最後に

(引用元:「葬送のフリーレン」11巻 山田鐘人/アベツカサ 小学館)

となるものなのだ。

 人との関わりは特に目的もなく、そこはかとない期待と失望と諦めが延々と続いていく。
 それを繰り返して、何となく一緒にいた果てに、やっと「こういう人だったのか」くらいに思うものだ。
「他人に対する理解」は地味な日常の積み重ねによって成り立つもので、感情を揺さぶられるような劇的なことがあるほうが珍しい。
 そこには特に感動もなく、理解の先に何かがあるものでもない。

「人を理解しようとすること」はいかに困難で危険性や暴力性をはらんでいるか、先が見えない地味な積み重ねの連続か。
 その積み重ねの末にたどり着いた理解はさほど感動するものでもなく、ただ「存じております」と言うものに過ぎない。

 ヒンメルは表には出さなかったが、フリーレンの無理解に傷ついていなかったわけではない。

(引用元:「葬送のフリーレン」4巻 山田鐘人/アベツカサ 小学館)
人にこういう顔をさせてはいけない……。

 それでも、フリーレンに理解を示して「自分をわかってくれ」と言わずに死んだ。
 そして死んだあとも、フリーレンに理解を示し続けている。
 その思いがフリーレンを変えたのだ。

 フリーレンはヒンメルに出会うことによって「人に対して無関心だったが、わかりたいと思うようになった」のではない。
「自分の人間(他人)に対する関心は、相手にも自分にも無意味どころか有害なのではないか」というフリーレンの持つ恐れを、ヒンメルの存在が乗り越えさせたのだ。

 フリーレンは、暗黒竜の角について、昔ヒンメルとした会話とまったく同じ会話をシュタルクとしている。
「意味のないくだらない会話」なので、ヒンメルのことを思い出しもしない。
 だがヒンメルに出会ったからアイゼンに出会い、シュタルクと出会って旅をしている。
 読んでいても「前にもこんな話をしていたな」「こんなことがあったような」と思うたびに前の巻のことを思い返したり、読み返したりする。

 くだらない日常や会話が積み重なって、人との関わりや人への理解は出来ていく。
 だから「人間はすぐに死んじゃう」としても、その人との関係性は死なないのだ。
 そういうことが読めば読むほど、身に沁みてくる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?