ふと「文化大革命」について調べたくなったので本を読み出したが、上巻の半分くらいで心が折れそうになった。

全然、まとまっていないけど書きたくなったので考えたことをザーッと書きたい。

*暗い話は好きじゃないというかたは避けて下さい。せっかくのクリスマスだし。


昨今の風潮を見ていて、ふと「文化大革命ってどうだったっけ?」と思いつき、本を読み出した。

読む前は大まかな流れ「毛沢東の権力の下、四人組が主導した」くらいしか知らなかった。

想像を遥かに上回るひどさだ。

全国の学校で教師や校長が標的になってリンチにかけられ、拷問死する詳細が出てくるが、読んでいるのがキツイ。(また色々なパターンが出てくる)

歴史上のどんな出来事でもひどい描写というのは山のように出てくるし、「人が人に対してここまで残虐になれるのか」と思うのは思想(共産主義)に限ったことではないと思う。

「自己批判」や「反革命思想」の一種独特の恐ろしさ、おぞましさは、内面の逃げ場もなくすことではないかと見るたびに思う。
普通の(という言い方は変だが)残虐な行為であれば、少なくとも殺されたほうは「自分は犠牲者であり、相手のしている行為は悪い行為だ」という認識がある。

だが「自己批判」の論法は、これほど残虐な行為をされているのに、されている側が「自分がこういった残虐な行為をされても当然の人間だ」と思わされる。

やる側は当然「相手は悪い人間であり、自分は正しい」と思っている、そしてやられている本人ですら「自分はこれほど残虐な行為をされて当然だ」と思っているので、行為に歯止めがかからない。

「殺す」ことが目的ではなく、「相手に罰(屈辱)を与える行為、貶める行為が目的で、結果的に死に至らしめるパターン」が多い。

「相手に無価値感を与え、内部も含めて破壊することが目的」であり、要は「ものすごく苛烈ないじめ」だ。

屈辱的な恰好をさせて、本人に自分の罪を叫ばせ、自分がいかに悪い人間かを言うことを強いる。
そんな描写が山のように出てくる。

逃げるのではなく自殺する人間が多いのは、内面にすら逃げ場がないからではと思った。
閉鎖された(と錯覚しうる)空間で、無価値感を叩き込まれれば、そりゃ死ぬしかないと思う。プラスつるし上げられて拷問で死に至らしめられる恐怖もある。

沈黙すら批判されるから、「自分で自分を破壊することを強要される」。

「自分で自分を破壊することを強要される」
というのは、およそ人間にとって最も残酷な行為だ。

それを国家規模でやる、しかも強いているほうがそれを正しいと信じている、だから白昼堂々と公開して行われるというのはなかなかキツイ。

モスクワ裁判も内実は同じだが、今考えるとあれは密室の話だからまだしもマシだった。
密室(暗い場所)でやるということは、やっているほうに多少なりとも「闇(悪)に属すること」だという意識がある、もしくは「密室でやること」でそういう意識が生まれる。

以前、天安門事件の本を読んだときに

「中国の国民は、国家が壊れる状況やその時の混乱を経験しているので、どんな国でもないよりはマシ、という意識がある」ようなことが書かれていて、「そういうものか」と思っていたが、確かにこういうことを経験していると「多少、国が強権的でも自由があるだけマシ」という意識になるのかもしれない。

「自分たちに圧力をかけるものが国家である、と思えるだけ、まだマシ」
自分の周りの人間全て、自分の内部から圧力が生じて自分を壊す可能性があるよりはまだマシだな、と思う気持ちはわからないでもない。


思想は、それひとつで完結していて完璧であればあるほど、それを運用する人間は間違う。正しく見えれば見えるほど危うい。

「思想が正しいから→自分は間違っていない。→何故なら、自分が持つ思想は間違っていないから→私を批判するということは、正しい思想を批判するということ」という発想の人間には、強い警戒心がわく。
「正しい思想だとしても、自分の言動の可否はそれでは決まらない」
という発想がないのは怖い。

「真昼の暗黒」では、なぜモスクワ裁判の被疑者がやってもいないことを自白したのかは、「党は間違えない」という結論を内面化していたからだという風に描かれていたが、それと同じだ。
あそこまで極端に描かれると分かりやすいんだけどな。

さらに言うと、正しい思想を正しく運用するということを自分に課すほど潔癖で強い人間はほとんどいないから、そのうち「思想を信じている」と言いながら、思想を利用するようになる。

文化大革命でも、最初のうちは批判の対象になった人間は過去の言動をすべて事細かに調べ上げられていたが、そのうち批判したい対象を見つけたら、過去の言動を事細かに調べ出す

そういう逆転の現象が起こる。
毛沢東は、人がそういうものだと知っていて、そういう仕組みに入りこんだ人間を利用する。
最初は自分が追い落としたい劉少奇に厳しく弾圧させて、後から劉少奇が間違っていたと批判し、劉少奇に迫害された人が毛沢東に心酔するように仕向ける様は、凄いとしか言いようがない(誉めていない)

毛沢東は「世界観なきエリート」の亜種だと思う。
信念や理想、国家、思想、何でもかんでも自分の利害や保身のために利用できる。こういう人が絶対的な権力を握ると恐ろしいことになる。

毛沢東が手本にしていたスターリンもそうだが、「思想の後継者」の中にはその思想の無謬性(ゆえの権力)に惹かれているのであって、その思想自体には本当の意味ではまったく興味がないように見える人がけっこういる。

ひどい話だが、「超縮小再生産された構図」だけなら似たような話は今でもよく見る。

考えるとどんどん憂鬱な気持ちになってくるので、余り暗くならない程度に読み進めようと思う。

これに比べたら、「ブラッドボーン」の世界のほうが百倍マシだ。


今さら始めたが、めちゃくちゃ面白い。年末年始はブラボをして過ごそう。





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