見出し画像

創作を読んで「not for me」で済ませられるのは、興味も感情もまったく動かなかった時だけだ。

これを読んだ時に、すぐに二年くらい前にバズった「普通の人でいいのに」を思い出した。
自分の中でこの二作はまったく同じことを書いている。

島田さんはすごくドライで人を見下していて、私にはそれがとても落ち着く。
気持ちの悪い選民思想。(略)
彼の中で私の価値がなくなったと思った。

(太字は引用者)

この話は「才能(がある島田)」に選ばれることによって「落ち着く(自己確立)」。そして「才能」から見放され自己を見失いそうになった後、「相原(大学)に選ばれることによって」再度自己確立する。

「他者から『価値がある』と認めてもらうことによって自己確立する」
「判断する側、される側」「選ぶ側、選ばれる側」に分けると、「される側である」というマインドが終始動かず、ゆえに「選ばれなければ価値がない」という発想を辿りやすい。(*「高校の同級生である佐々木の告白は断っているから、相手を選んでいる」とかそういう話をしているわけではない)
こういう話を「無価値感ルート」と呼んでいる。

「常に『選ばれる側』であるという受容姿勢をマインドセットしている無価値感ルートの人」が闇堕ちすると、(これまた先日バズっていた)「44歳処女の話」のように「加害者としての自分を一切認められなくなる」

自分がもし、ジェンダーという観点で創作を見るとしたら「女性が受容姿勢をマインドセットしていることが前提となっている無価値感ルートの話」はそうとう批判する。
だが創作は何でも自由だと思うので「選民意識の強い男に選ばれることで自己実現しようとしたが、その夢が破れたあと、また他者(相原・大学など)から肯定してもらうことで自己確立する女性が主人公の話」があってもいいと思う。

ただ上記の記事でも話しているように、そういう「旧来の性規範の観念をなぞっているのでは」という批判をナシにすると、「無価値感ルート」の話は、どう読んでいいかわからないくらい自分の中に興味のフックがない。

親しくない知人から、突然身の上話を聞かされたように「へえ」くらいの感想しか思い浮かばない。
自分の中ではこういう作品が「not for me」だ。
(以前の発達障害の話でも思ったが、「実話系自分語り」はそもそもどういう面持ちで読めばいいのかがよくわからない。「『実際にこの話を聞かされたら、何か言わなくては、反応しなくては、という焦りからとんでもないことを口走りそうな気がする』と思ってしまい、変な動悸がしてくる」というのが感想になってしまう。これはもう感想ではないな)

「つまらない」「おかしいと文句が言いたくなる」「疑問がわく」「苛立つ」作品は、「not for me」ではない。「自分がこだわりがあること」に対立軸があるから、「何がそんなに気になるのか」を長々と述べたくなる。
例えば映画版「ドライブ・マイ・カー」は、自分にとって原作の解釈違いなので「原作読んでいたら、そんな解釈にはならないだろ」ということをどこでそう感じるかまで細かく話したくなる。それは自分もこの映画の監督と同じように「原作が凄い、良かった」と思っているからだ。
ネガティブな感情がわく、しかもそれを長々と述べたくなる作品は「普通に面白かった」作品よりも遥かに「for me」だ。

その作品を楽しんだ人、共感した人、そもそも否定的な意見は見たくないという人の中には「『not for me』で済ませては」という人もいると思う。
だが感情が動かされれば、良くも悪くもそれでは済ませられない。少なくとも自分にとっては、「not for me」で済ませられる創作は、興味も感情もまったく動かなかった作品だけだ。

確かに自分の好きな作品のネガティブな感想は、苛立つことがあるし、腹が立つこともある。
でも、それこそ大抵の場合は「not for me」と「解釈違い」で済ませることにしている。(*大抵の場合は)

「解釈違い」については、こう考えている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?