「男性にも『ことば』が必要だ」を読んで考えたこと。

はてなで話題になっていたこの記事の話。
これについて、自分のブコメがかなり頓珍漢だったのでその反省会と、記事に関連して自分が感じたことをまとめたい。

後半は「男が語れない、抑圧の要因は女性」と言っているように聞こえる。女性側の主張でも見るが「自分の属性の辛さは女(男)が原因。女(男)が変われ」というのは、その無力感こそ問題に感じる。/前半はほぼ同意

いま読んでも「ううっ」と頭を抱えたくなる。
今までずっと「男性も女性も、性別で分けられた社会的な規範の中で不利益は被っているが、それはコインの裏表のようにまったく真逆。お互いがお互いの立場を体感できるわけではないのに、同じ視点で比較してしまう。だから揉めやすいのではないか」という風に考えてきた。

男は「常に主体的でいなければいけない辛さ(自分が常に事態を動かし、責任を取れなければ無能とみなされ、価値を認められず無視されてしまう)」を抱えていて、女性は「受容的な客体として存在することを期待される辛さ(他者から評価・判断・意思を受け入れる側でなければ、わきまえていないと思われる)」を抱えている。(性別による社会規範がこう機能しがち、という話)

「男性も女性も性別による規範に抑圧されているが、抑圧のされかたが真逆だから、比較しても仕方がない」という話をずっとしていた。

例えば「女子供」という「女と子供」を一緒にする言葉は、一見女性差別のみを表す言葉のように聞こえるが、裏を返せば「男は子供のようではいけない」という規範を示しているとも言える。

男は子供のように甘えてはいけない。
男は子供のように守られていてはいけない。
男は子供のように感情的になってはいけない。
男は子供のように泣いてはいけない。

こういう言葉が存在する社会で、「男も辛かったら泣いていい」と言われても「わかりました」とはなかなかならないだろう。
「女子供」という言葉に、私は大人であり子供に対して責任を果たす側である、と反発する女性もいれば、男だって子供のように泣きたい、と思う男もいるだろう。
「泣きたい奴が泣きたいときに泣けばいいし、守りたい人が守りたいときに守りたいと思う人を守ればいい」という社会にしていけばいいのでは、と思っていたし、ずっとそういう話をしてきたつもりだった。

つもりだった、が。

「自分の属性の辛さは女(男)が原因。女(男)が変われ」というのは、その無力感こそ問題

だから「男は無力じゃダメなのか」と言うことが言いたいんだが、とセルフ突っ込みしてしまった。
男も能動的な主体でいることに疲れて、「自分が何もしなくても(無力でも)誰かに選ばれ、世界が変わる」そういう時があっては駄目なのか。
「自分は受け身のほうが向いているのに、男が受け身で無力だとみんなから無視される」というのが男(主体)のキツさだと思う。

「主体であること」を望む女性にとっては、無力感(自分は事態を変える力はないから、他人にどうにかして欲しい)は常に戦わなければならない感覚だと思っていたのでつい書いてしまったが、男については「男と女は真逆の抑圧を受けている。辛い部分が違うのだから比較しても無駄」と考えてきたことと、完全に矛盾しているなと気付いた。
(自己矛盾していることを問題に感じているので、上の自分の意見にスターを押してくれた人も間違っていると思っているわけではない。その人たち自身が考えた理路の中で「そう思う」ということだと思うので。)


「主体」「客体」はざっくりとした分類で言うと

・主体ー能動ー強さー罪悪感ー悪
・客体ー受動ー弱さー無力感ー善

という風に結びつきやすい。

前者を「主体カテゴリ」後者を「客体カテゴリ」とすると、現代の社会の性別規範は(あくまで社会規範は)前者を男に割り振り、後者を女性に割り振っている。
だから、前者の感覚は男に生じやすいし、後者の感覚は女性に生じやすい。

「自分が相手よりも強い」という感覚からは、罪悪感(自分の存在は相手を傷つける、悪者であるという感覚)が生じやすい。
男女で言えば、肉体的に強い男に生じやすい感覚である。
社会規範が難しいのは、男女という肉体的な差異がある属性が社会を形成するために作られている点だ。

(一般的に)物理的な力や性欲が強く、露骨に言えば「犯す側の性」である男の力を制御するために(社会で女性と共存するために)生まれた暗黙のルールが「社会規範」だからだ。
「男の力は女性や子供などを守るためのものだ」
「男は力が強いのだから感情的になってはいけない(危ない)」
「男は強くなって女性を守れるから(力をいい方向に、女性や子供、弱者のために使うから)女性のパートナーになっていい」

男は、力と性欲という二つの持って生まれたものを、ある程度「悪いもの(人を傷つける可能性があるもの)」として制御せざるえない。存在が自己矛盾を抱えている。

社会規範による「男らしさ」はクラスター家のジレンマを発動させないためのものだ。(「ゲーム・オブ・スローンズ」のクラスター家において、「一人の強い男が頂点に立ち、息子が生まれたら殺し、娘が生まれたら自分の妻にして子供を産ませる」社会構造のこと)

社会規範が機能しない「力のみが有効な社会」では、男は「(頂点に立たなければ)殺される性」であり、女性は「犯され孕まされる性」なのだ。
露骨に言えばそういうことになってしまう。

女性側から言えば、女性は「力のみが有効な社会」ではどうやっても頂点には立てない。男に選ばれることでしか(受容的な客体であることでしか)生き残る術がないのだ。

もちろん男性でも性被害を受けたことがある人はいるし、例えば以前見た「ミャンマー衝撃の映像」では、現地の男性記者が軍から尋問のときに精神的苦痛を与えるために強姦されたという話が出てきた。(聞いていてキツかった)

そういう個別の事案ももちろん無視すべきではないと思うけれど、ただ全体的に考えれば女性のほうが性被害に遭いやすいし、女性は(まったくないとは言わないが)男性を相手に「物理的に犯す側」に回ることは難しい。

「原初の力が支配する社会では、自分が頂点に立つ(主体となる、能動的にコントロールする側になる)可能性がゼロである」から「多くのケースで受け入れる性として、自分の属性を意識せざるえない」。そのために、性の分野で被害感情が生じやすい。


一度話をまとめると、対女性(対男性)において、男(女)がどう存在するかは下記のような感じだと思う。

男→生まれつき持った力や性欲を「制御し、抑圧しなければいけないもの」という自己矛盾を抱えている。力が強く、性欲によって女性を傷つける可能性を内包しているため、罪悪感が生じやすい。
その力を「いい方向」に使い罪悪(=強者であること)を払拭することで、女性とパートナーシップを結ぶことを(規範においては)赦されている。

女→原初の力のみが支配する世界では、どう頑張っても主体とはなりえず、「選ばれる、犯される」受動的な性として存在するしかない。
ゆえに性において、無力感、被害感情などに必然的につながりやすい。

社会規範の中では、男は「力をいい方向で使う」という保障を示さなければ女性に選ばれることはない。(もちろん目に見えるものではないので、誤認してしまう場合もあるが、基本的な構造はこうである。)
「力をいい方向に使うという保障、証明」ということを「能動的に」示さなければ、女性は危なくてその男を選べない。
「弱者男性」と女性の利害の対立(?)は、ここに存在する。

・能動的ー主体的ー強い存在であることに疲れている、もしくはそういうことに向いていない男
・「犯される性」であるがゆえに、「『自分のために力をいい方向に使ってくれる』という保障がない男」は危なくて選べない女性

「弱者男性」としては、自分たちは女性に対して性的な接触は出来ない(ゆえに諦めている部分もある)のに、なぜ男であるというだけでこんな風に言われるのかという思いがあると思う。(気持ちはわかる)
一方で女性から見ると、「力や性欲を持った男」というだけで、それはもはや弱者ではない。(見た目では判断がつかない。)率直に言えば、二人きりになり社会規範が外れたときに、自分を圧倒することが出来る(そして自分は圧倒することが出来ない)相手だからだ。
もっとはっきり言うと、「潜在的に『自分のことを犯すことが出来る相手』」と認識している、ということだ。

社会が機能している世界では「とても失礼な話」ではあるが、「失礼、失礼ではない」の判断を誤ったときに被害を受けるのは女性である、という感覚が女性にはある。

男は「持って生まれた力や性欲を制御しなければならない」という自己矛盾を抱えている。女性は「男に警戒と不信の目を向けながら、関係を結ばなければならない(社会で共存する限りは避けられない)」という矛盾を抱えている。

この感覚は、「男の肉体を持って男として生きる」「女の肉体を持って女として生きる」ことがない限りは、お互いにわからないのではないかというのが自分の意見だ。

この「お互いに相手のことがわからないが、その『わからない』を前提とせずに話をしている」+性(欲)の話にまで進むと女性の被害感情が男の罪悪感をぶち当たり、その痛みの防衛反応から反発する構図になり対話どころではなくなる、という現象が起こる。

自分も「月曜日のたわわ」の広告の件は、広告主である日経が判断すればいいし、基本的には創作に対する規制は最小限にとどめて欲しい派だが、女性がなぜああいう広告に不快さ、そしてたぶん脅威を感じるのか、ということは男も想像できる部分があるのではないか、とは感じる。

そして「月曜日のたわわ」の一巻を読んでみて、意外にも内容は女性にも配慮した漫画だと感じた。

*どこでそう思ったかは、下の記事の無料部分で書いた。

作者は自分の嗜好を追求しつつも、男女の関係性については割と気を使っているように見える。(特に高校生については。こういう関係性が好みなだけかもしれないが)
性に関連するものを余りに強い言葉を使って排除しようとするのは、性欲自体を悪と断じることに(そういうつもりがなくとも)簡単に結びつく。
性欲自体を悪と断じる「性欲のスティグマ化」は女性も抑圧するので、それは少し考えて欲しい。

*性欲のスティグマ化がいかに女性も苦しめるかは、「ちさ×ポン」を読むとわかりやすい。


自分の痛みや拘泥するものがある話題では、相手のことを考えようとしても自分の痛みが邪魔をするので難しいのかなと見ていて思う。
それでもお互いの感覚だけを前提に話してしまうと、話が対立しているようで一方通行の話が平行して並ぶだけになってしまう。

「男性にも言葉が必要だ」は、前半は男女の問題の表裏がよくまとまっていてわかりやすいと思った。
コメントを見ても共感している人も多いし、(たぶん)女性でも理解を示している人が多いので少しずつだけど話が進んでいる……と思っていいのかな。

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