人を抑圧から解放するための思想が、簡単に人を抑圧するものになってしまうのは何故なのか。
この記事の続き。
学生運動が盛んだった時代に
「自分たちは今まで資本主義社会で生きてきたから、その価値観を内面化している。だからその内面を解体しなければならない」
という「共産主義化理論」が流行った?けれど、前々から「既存社会の抑圧から人を解放するための思想が、何故個人を抑圧するものに変化したのか」が不思議だった。
資本主義社会の搾取構造の打倒を目指すという理想はいいが、個人を内面から変えるという方法を用いれば、自分自身が個人を抑圧する構造の一部になるとわかりそうなものだ。
「個人の内面の変革によって社会を変革する」
「社会を変えるためには、個人の内面を統制しなければならない」
「社会システムと個人の内面システムを同化させる」
「個人を解放するために個人を抑圧する(何が何だか)」この発想は、日本の学生運動の場面に限らず、文化大革命やポル・ポト政権やソ連の粛清などでも出てくる。
大元はマルクスの思想なのかなと思い、少し調べてみた。
松尾匡さんのこの説明がわかりやすかった。
そもそもマルクスが提唱したのは、
その事案に関わる個人は誰も得をしないのに、社会によって作られた暗黙の了解によって動かされてしまっている、それが「疎外」だということらしい。(自分が理解した限りだと)
「社会によって作られた暗黙の了解」「その了解を生み出す社会という枠組み」によって、個人は自分の本当の意思や自分自身を体現出来ないのではないか。
本来は自己(個人)を、社会の抑圧から解放する考えであり、過去に学生運動やソ連や中国が行ったことと正反対だ。
では何故、社会主義政権でこの考えが転倒したのかと言うと、記事内で後述されるように
こういうことなのだろう。
「個人を解放するための思想も多数のコンセンサスになった瞬間、『社会』となり個人を抑圧する疎外要因となる」
人の中に「他者にとって社会として機能(含抑圧)している部分」と「個人として社会から抑圧されている部分」が並列して存在する、というのはごく当たり前のことだ。
だが、人は「自分は実体、自分が実感できない他人は概念」として認識するように出来ているので、意識していなければ(意識していても)そのことを感じ取れなくなってしまう。
自分の実感としては他者や社会と個人で対峙しているつもりでも、他人にとっては抑圧する社会として機能している。
人の在り方は、これがデフォルトなのだと思う。
この状態を自分では実感できない、ということを押さえておかないと、簡単に「個人を社会の抑圧から解放する」という理屈を以て、自分が他人を抑圧する社会になっている、という逆転現象が起こる。
思想の内実(善悪是非)は関係がなく、思想というものにはこういう性質が含まれている。
オウムもその世界観の外側にいると「理系の高学歴者が多かったのに、何故あんな荒唐無稽で子供じみた話を真に受けたのだろう」と疑問に思う。
これについて、地下鉄サリン事件の実行犯の一人である林郁夫が「他人を概念として見ていて、自分たちの理論に当てはめていた」と語っている。
この人も元々は、「人を救いたい」という気持ちが強い人だった。
「進撃の巨人」で語られた通り、人は誰しも、巨人に怯やかされる脆弱な個人の中に誰かを踏みつぶす巨人(社会)として自分を隠し持っている。
そのことに自覚的であることが大切なんだろうなと思う。
意見を言う時は、「私」という輪郭を常に意識して(党派性で物事を判断しない)個人として対峙することをこれからも大切にしていこうと思った。
創作は個人の領域なので特に。
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