「社会に依拠せず、自分が世界とどう対峙するか」を語っているコーマック・マッカーシーの作品が大好きだ。
黒原敏行がマッカーシーの作家性だけではなく、作品一冊ごとに話をしている。こ、これは贅沢すぎる。
記事の終盤で黒原敏行がこう語っているように、マッカーシーの作品の特徴は、社会がほぼ機能していない、ゆえに自己がむき出しのまま世界と直で対峙する(せざるえない)ところにある。
今の時代だと「自己を抑圧するもの」として捉えられることが多いけれど、社会は「脆弱な自己を守る鎧」でもある。
共同体の内部にいれば助け合いが可能であるという実利的な面もあれば、社会性が機能していれば当たり障りのない会話をすることで、自己のみで他人と相対さなくてもいいなど、自己がむき出しのまま外界に放り出されなくていいような機能を持っている。
マッカーシーの作品では社会が機能していないため、倫理観や道徳は問題にならない。
どんなに残酷な、非倫理的な事象でも、それが自己(の運命)にとってどういう意味を持つかしか描かれない。
「ザ・ロード」は設定上分かりやすく社会が崩壊しているけれど、「ノーカントリー・フォー・オールドメン」もモスを取り巻くものとして社会が機能していない。
だからモスは、自分を追いかけて来るシガーと(社会における道徳に依拠せず)自己のみで向き合わざるえない。
残酷な殺し屋であるシガーが作内の文脈で「明らかな悪」ではなく、モス(や妻のカーラ・ジーン)にとってあたかも逃れることのできない運命(記事の中では黒原敏行は『死神』と表現しているが)として描かれているのはそのためだ。シガーが「悪」ではなく「運命」として描かれていることが、社会がモスの作内の行動にまったく関与していない(できない)ことを表現している。
自分がマッカーシーの作品が好きなのは、社会(他人)に依拠せず、自分が世界(自己の運命)をどう見るか、どう受け取るか、どう対峙するかを語っているからだ。
大抵の場合、象に立ち向かう蟻の如く踏まれてつぶれて終わる。何の仮借もなく「そりゃ当然そうなるだろ」という感じで容赦のない結論にたどり着く。そこも好きなところだ。
マッカーシーの作品はジャンルは違えど、こういう話ばかりだ。
「『世界』の中で生きていくということは、闇の中で手探りをしながら自分で道を見つけていくことなんだ」
いい言葉だなあ。
マッカーシーがどういう人だったかというのは、断片的な情報しかないのではっきりはわからない。
ただ引用符や読点を使わないという執筆の姿勢を見るだけでも、そうとう気難しい人だったのかなと感じる。
自分が作品から想像したマッカーシーもこんな感じの人だ。
「自分が読まれたいと思って仕掛けたら思った通り読まれるようになった」って凄すぎる。何だそれ。
「通り過ぎゆく者」と「ステラ・マリス」も文庫本になったら(なるよな)買って読みたい。
*マッカーシーの本の個別感想記事。