エマニュエル・トッドが語る「新フェミニズム」を読んで思ったこと。
◆読売新聞の記事の感想
2022年12月25日(日)の読売新聞で、エマニュエル・トッドがフェミニズムについて語っている記事が興味深かったので紹介と感想。
ネットでも「女性に対する男性支配」を前提とした「男性嫌悪」を基調としている意見を見かける。
今までのフェミニズムの歴史を踏まえて、「ミサンドリー」「ツイフェミ」という呼称で細分化しようとする向きもあるが、トッドによると「新フェミニズム」という呼称があるようだ。(調べると、「ガイノクリティシズム」を提唱したショーウォーターが出てくるのでちょっとややこしいと思う。)
フランスはこんなことになっていたのかと驚いた。
これだけ読むと日本よりも、対立が尖鋭化しているように感じる。
欧米は分からないが、正直日本はまだまだではと感じる。
現在の社会制度は、元々その土地の社会システムが根本にある。
日本は歴史的に長子相続の家制度によって社会が構築されてきて、今の社会制度はそれを基盤に構築されている。「父親が働き家族を養い、母親が補助的に働きながら家庭内のことをやる」というモデルを基にして制度が作られており、そのモデルに即した生き方を選んだほうが社会の中ではずっと得をするようになっている。
各制度は、社会という幹から必然的に生えてきた枝の一部である。
社会という幹が変わったなら、それにふさわしい枝を接木するのが良い、それが合理的だと自分も思うが、その場合は幹が本当に変わったのか、新しい枝を接ぎ木しても管理しきれるかという確認が必要だと思う。
「制度が時代に即していない」と言うなら、幹である社会の点検、この先その社会がどう成長していくか、もっと言うならどう成長させたいか、ということを描いて、初めてその幹に即した枝葉をどう変化させていくかを考える。順序としてはこうなる。
社会の全体像のデザインをせずに、一時の利便や何となくこちらのほうが進歩的だからという理由で部分部分だけを変えるのは付け焼刃でしかない。(逆に根本的な問題が見えにくくなると思う)
社会制度を根底から見直す、デザインし直すのは大変だが、(だから今までつぎはぎ処置をされるだけで放置されていたが)少子化も危機的状況に来ているので、社会のデザインの見直しをやったほうがいいし、やって欲しい。
「カトリック勢力を恐れて、左翼は婦人参政権に反対していた」
え? と思って三回くらい読み直した。
日本だと、左翼は歴史の上でも女性解放運動に肯定的な印象があった(内実はどうあれ)ので、表立って反対していたことに驚いた。
「女性解放は男性解放でもある」ここは全面的に賛成だ。
性差別の問題は、「性別以外の要素もありそれぞれ特性がある個人が、性別によって一律に分類されること」が問題なので、男性側も重荷を背負わされ、女性とは逆の規範に縛られる。
性別は関係なく、個人が各々の特性を持ち寄って協力して生きていけばいい。
自分が目指したい社会はそういうものだ。
これが本当だとすれば、ポピュリズムとまったく同じ出現のしかただ。
「社会(規範)」は現代日本社会ではネガティブなものとしてのみ語られがちだが、社会規範は自我を脅かすものであると同時に、自我を守る殻にもなる。どこの場所、どんな場面でも個人として対応しなければならないとしたら、それはそれで人はすり減っていく。
「その社会で決まりきったこと」「共有の意識」があるから、個をむき出しにしなくともやっていける場面は多い。
規範が崩れて、自我を確立する拠り所がない、そこから現れる存在不安は「社会で生きることを強いられる男」にいち早く現れた。もしかしたらそのために、男性の自殺率は高いのかもしれない。
規範は強すぎれば個人を抑圧するが、なくなれば個人に存在不安を与える。
「第三波は全女性の利益になっていない」その根拠は何なのか。
前段とつながっていないように思えて、最初は首を捻ったが、「社会で女性が稼ぎにくい」という問題以前に、世界的に経済が不安定になっているので、「とにかくみんなで協力し合ってやっていくしかない。分断を叫んでいる場合ではない」という物凄くざっくりした話だと思ったので賛成だ。
トッドは、今年初め、女性史を概説した「彼女たちはどこからきて、今どこにいるのか?──女性史の素描」という本を出したようだ。
まだ日本語訳は出ていないらしいが、この感じだと恐らく訳されるのではと思うので出版されたら読んでみようと思う。
◆「クーリエ・ジャパン」の記事の感想
2月に「クーリエ・ジャパン」でも同じテーマで語っているが、多少違う部分もあるので読んでみた。
欧米各国でフェミニズムを巡る男女の関係性は違う模様。
なぜ英米のフェミニズムは、男女の分断が深いのかというと、
宗教の違いが大きいというのが、トッドの意見。
ここは前述した、「社会から文化が生まれ、その文化を土台にして社会制度が生まれ、そこから思想が生まれる」ということにつながる。
性別の問題ではなく、社会と個人の関係性、「近代的自我」の問題では、というのは興味深かった。
競争社会の中で存在不安を抱えた自我が、拠り所となるアイデンティティーを求めて「支配者(男)に、不安の根源を仮託している」。
ここまで図式的ではないにせよ、自分も「男の相対としてしか存在しえない、被支配者たる女性像」に強い疑問を持っている。
それでは結局「女性は客体(相対)としてしか存在しえない」ということになってしまう。
これはスピヴァクも同じことを言っていた、と思い出した。
自分が受けている(受けた)具体的な被害についてはおおいに語ればいいと思う。(性別関係なく)
自分の事例を拡大して男女の二項対立に持っていくのは、いくら何でも概念を雑に扱いすぎだ。
「女性」という概念に包摂されなければ、「私」を語りえない。
その女性も「男という支配者」の概念を用いなければ語れない。
そういうものは自分は余り興味が持てない。
今後も、自分が良いと思った考えを学んでいこうと改めて思った。
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