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エマニュエル・トッドが語る「新フェミニズム」を読んで思ったこと。

◆読売新聞の記事の感想

2022年12月25日(日)の読売新聞で、エマニュエル・トッドがフェミニズムについて語っている記事が興味深かったので紹介と感想。

今の女性解放運動は新フェミニズム運動とも呼ばれます。私見では、その特徴は男嫌いです。
男性中心主義・男性支配を糾弾し、父系制を諸悪の根源としている。

(2022年12月25日(日)6面「あすへの考・新フェミニズム」エマニュエル・トッド/太字は引用者)

ネットでも「女性に対する男性支配」を前提とした「男性嫌悪」を基調としている意見を見かける。
今までのフェミニズムの歴史を踏まえて、「ミサンドリー」「ツイフェミ」という呼称で細分化しようとする向きもあるが、トッドによると「新フェミニズム」という呼称があるようだ。(調べると、「ガイノクリティシズム」を提唱したショーウォーターが出てくるのでちょっとややこしいと思う。)

(略)(フランスでの女性解放)運動指導者らの「男性は皆、潜在的な性加害者」と言わんばかりの主張に賛否は割れた。
女優カトリーヌ・ドヌーブ氏ら100人余りの識者は、「過激さ」をいさめる公開書簡を出したものです。

(2022年12月25日(日)6面「あすへの考・新フェミニズム」エマニュエル・トッド)

フランスはこんなことになっていたのかと驚いた。
これだけ読むと日本よりも、対立が尖鋭化しているように感じる。

私は違和感を覚えます。(略)
仏下院に占める女性議員は21世紀初めは1割程度でしたが、今日は4割近い。
中等教育修了者は半世紀余り昔に、女性が男性に数で勝った。高等教育も全般的には女性優位の傾向を示している。
米欧では女性解放は実現している、というのが私の立場です。

(2022年12月25日(日)6面「あすへの考・新フェミニズム」エマニュエル・トッド)

欧米は分からないが、正直日本はまだまだではと感じる。
現在の社会制度は、元々その土地の社会システムが根本にある。
日本は歴史的に長子相続の家制度によって社会が構築されてきて、今の社会制度はそれを基盤に構築されている。「父親が働き家族を養い、母親が補助的に働きながら家庭内のことをやる」というモデルを基にして制度が作られており、そのモデルに即した生き方を選んだほうが社会の中ではずっと得をするようになっている

各制度は、社会という幹から必然的に生えてきた枝の一部である。
社会という幹が変わったなら、それにふさわしい枝を接木するのが良い、それが合理的だと自分も思うが、その場合は幹が本当に変わったのか、新しい枝を接ぎ木しても管理しきれるかという確認が必要だと思う。

「制度が時代に即していない」と言うなら、幹である社会の点検、この先その社会がどう成長していくか、もっと言うならどう成長させたいか、ということを描いて、初めてその幹に即した枝葉をどう変化させていくかを考える。順序としてはこうなる。
社会の全体像のデザインをせずに、一時の利便や何となくこちらのほうが進歩的だからという理由で部分部分だけを変えるのは付け焼刃でしかない。(逆に根本的な問題が見えにくくなると思う)
社会制度を根底から見直す、デザインし直すのは大変だが、(だから今までつぎはぎ処置をされるだけで放置されていたが)少子化も危機的状況に来ているので、社会のデザインの見直しをやったほうがいいし、やって欲しい。

第一波は(略)主に婦人参政権の獲得を目指す政治闘争でした。
フランスは遅れた。
女性の政治参加は、女性に影響力を持つ保守的なカトリック勢力の伸長につながると左翼が恐れ、反対したからです。

(2022年12月25日(日)6面「あすへの考・新フェミニズム」エマニュエル・トッド/太字は引用者)

「カトリック勢力を恐れて、左翼は婦人参政権に反対していた」
え? と思って三回くらい読み直した。
日本だと、左翼は歴史の上でも女性解放運動に肯定的な印象があった(内実はどうあれ)ので、表立って反対していたことに驚いた。

青年だった私は、女性解放は男性解放であると考え、未来はより明るいと実感したものです。

(2022年12月25日(日)6面「あすへの考・新フェミニズム」エマニュエル・トッド/太字は引用者)

「女性解放は男性解放でもある」ここは全面的に賛成だ。
性差別の問題は、「性別以外の要素もありそれぞれ特性がある個人が、性別によって一律に分類されること」が問題なので、男性側も重荷を背負わされ、女性とは逆の規範に縛られる。
性別は関係なく、個人が各々の特性を持ち寄って協力して生きていけばいい。
自分が目指したい社会はそういうものだ。

次に、新たな階級対立の出現。
(略)ジャーナリズムも女性が力を増している。(略)
中産階級のイデオロギーを女性が作り出すようになってきた。(略)
一方で男性は資本主義経済の頂に立ち続ける。
新フェミニズムは男性支配の上流階級に挑む、女性が主役の中流階級という構図になっている。(略)
経済グローバル化を伴う貧富格差の拡大や総体的な生活水準の低下で社会は次第に悲観に染まる。
ついに緊張がはじけ、フェミニズムとして噴出したといえます。

(2022年12月25日(日)6面「あすへの考・新フェミニズム」エマニュエル・トッド)

これが本当だとすれば、ポピュリズムとまったく同じ出現のしかただ。

社会学者エミール・デュルケームは19世紀末、近代化に伴う男性の自殺増の原因を調べ、規範を失って戸惑う心理「アノミー」を探り当てます。
この心理が新フェミニズムの背景にある
と私は考えます。

(2022年12月25日(日)6面「あすへの考・新フェミニズム」エマニュエル・トッド/太字は引用者)

「社会(規範)」は現代日本社会ではネガティブなものとしてのみ語られがちだが、社会規範は自我を脅かすものであると同時に、自我を守る殻にもなる。どこの場所、どんな場面でも個人として対応しなければならないとしたら、それはそれで人はすり減っていく。
「その社会で決まりきったこと」「共有の意識」があるから、個をむき出しにしなくともやっていける場面は多い。

規範が崩れて、自我を確立する拠り所がない、そこから現れる存在不安は「社会で生きることを強いられる男」にいち早く現れた。もしかしたらそのために、男性の自殺率は高いのかもしれない。
規範は強すぎれば個人を抑圧するが、なくなれば個人に存在不安を与える。

第3波(新)フェミニズムが悲観でくすむのは、経済状況の違いの反映でもある。(略)
新フェミニズムは男性に敵対的ですが、米欧の中流階級は現実は夫婦・パートナー同士が家庭を守る傾向にある。経済困難に際し、家計の収入源は二つの方が良い。
一方で労働者階級の世帯は安定を欠き、母子家庭が増えている。
新フェミニズムの攻撃性は労働者階級で家庭破壊を促す潜在力がある。
第3波は全女性の利益になっていないと私は考えます。

(2022年12月25日(日)6面「あすへの考・新フェミニズム」エマニュエル・トッド/太字は引用者)

「第三波は全女性の利益になっていない」その根拠は何なのか。
前段とつながっていないように思えて、最初は首を捻ったが、「社会で女性が稼ぎにくい」という問題以前に、世界的に経済が不安定になっているので、「とにかくみんなで協力し合ってやっていくしかない。分断を叫んでいる場合ではない」という物凄くざっくりした話だと思ったので賛成だ。

トッドは、今年初め、女性史を概説した「彼女たちはどこからきて、今どこにいるのか?──女性史の素描」という本を出したようだ。
まだ日本語訳は出ていないらしいが、この感じだと恐らく訳されるのではと思うので出版されたら読んでみようと思う。


◆「クーリエ・ジャパン」の記事の感想

2月に「クーリエ・ジャパン」でも同じテーマで語っているが、多少違う部分もあるので読んでみた。

私が驚いたのは、このフランスに英米流のフェミニズムに似た、敵愾心の強いフェミニズムが出現したことです。米国のフェミニズムは男女を対立させ、英国のフェミニズムは男女を分離しますが、フランスのフェミニズムの特徴は男女が同志の関係にあるところであり、そこは世界から称賛されていたのです。

(上記記事より引用/太字は引用者)

欧米各国でフェミニズムを巡る男女の関係性は違う模様。
なぜ英米のフェミニズムは、男女の分断が深いのかというと、

プロテスタントの伝統とつながりがあると考えています。じつはプロテスタントはかなり「家父長制」的なところがあり、それにくらべればカトリックの「家父長制」的な部分は曖昧なのです。

(上記記事より引用/太字は引用者)

宗教の違いが大きいというのが、トッドの意見。
ここは前述した、「社会から文化が生まれ、その文化を土台にして社会制度が生まれ、そこから思想が生まれる」ということにつながる。

この変化が全体的に見えてくると、女性たちが抱く不安や不満がよりよく理解できます。それは男性支配の残滓によって引き起こされているというよりも、これまで男性たちが抱えていた問題を女性たちも抱えるようになったということで説明できるのです。
とりわけ、社会学者のデュルケームが指摘したアノミーの問題です。社会が流動化していくと、人は人生に何を期待すればいいのかわからなくなり、社会への不満が募っていきます。階級のルサンチマンや苦悩、自分の人生への不安など、これまで男性特有だった社会心理の病気に、女性もさらされるようになっているのです。

(上記記事より引用/太字は引用者)

性別の問題ではなく、社会と個人の関係性、「近代的自我」の問題では、というのは興味深かった。
競争社会の中で存在不安を抱えた自我が、拠り所となるアイデンティティーを求めて「支配者(男)に、不安の根源を仮託している」。
ここまで図式的ではないにせよ、自分も「男の相対としてしか存在しえない、被支配者たる女性像」に強い疑問を持っている。
それでは結局「女性は客体(相対)としてしか存在しえない」ということになってしまう。

人類学の研究者として言わせてもらえば、アフガニスタンのカブールの女性の状況について語るときも、パリ周辺地域の女性の状況について語るときも、すべて一緒くたに家父長制だと言って論じることに、まったく意味を見出せません。

(上記記事より引用/太字は引用者)

これはスピヴァクも同じことを言っていた、と思い出した。

グローバルな規模における連合のポリティクスの蓋然的可能性に対する信仰は、買弁諸国において「国際的フェミニズム」に関心を持っている支配的社会集団の女性たちのあいだにも広まっている。(略)
労働の国際的分業のもう一方の側では、搾取されている当の存在は女性搾取のテクストを知ることも語ることもできないのだ。

(引用元:「サバルタンは語ることができるか」G・C・スピヴァク/上村忠男訳 p54)

自分が受けている(受けた)具体的な被害についてはおおいに語ればいいと思う。(性別関係なく)
自分の事例を拡大して男女の二項対立に持っていくのは、いくら何でも概念を雑に扱いすぎだ。

「女性」という概念に包摂されなければ、「私」を語りえない。
その女性も「男という支配者」の概念を用いなければ語れない。
そういうものは自分は余り興味が持てない。
今後も、自分が良いと思った考えを学んでいこうと改めて思った。

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