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!ネタバレ注意!「パラノマサイト FILE 23 本所七不思議」の感想

!警告!

 直接的な言及は避けているが、ストーリーの構成を察せられるような感想を含んでいるため、プレイをしてから読むことを推奨。



 以下の文章は全て個人的な見解です。権利者の方々による指摘や、個人的な気付きによって、予告なく変更・削除する可能性があります。
 また、視界が狭い人間なので、色々とご指摘いただければ幸いです。



前提

  • すべてのエンディングは確認済み。

  • シナリオはもちろん素晴らしいが、どちらかというとシステム的な試みやゲーム的な構造についての話を主軸とする。



感想

実在する怪談を基盤としたホラーアドベンチャーゲーム

 本所七不思議という実在する怪談(筆者はこれが実在するものだと知らなかった)をメインにしたホラーアドベンチャーゲームだ。

 本所七不思議にちなんだ呪いを所持してしまった人物たちが、それぞれの思惑を持って行動し、物語が紡がれるという形で、群集劇である。

 また、呪いには、各条件が設定されていることや、互いが呪い殺すことによって、死者を蘇らせるという目的を達成しやすくなっていることから、特殊能力もののバトルロイヤル形式(端的に言ってしまえば、聖杯戦争のような)に近い感覚もある。

 途中からは、シナリオチャート形式になっていき、それぞれのパートをプレイすることで、先のパートが解放されるという形を取る。取りこぼしがあるパートは(真エンディングや、『なめどり』のようなコレクター要素を除いて)青くなっていたりしてわかりやすくなっており、全体として詰みにくく、現代的なユーザーフレンドリーさを感じるゲームとなっている。



メタ形式の設定と、選択肢

 ゲーム開始時から、これがメタ要素を取り扱ったゲームであることが明示されることになる。

 案内人という謎の人物から説明を受け(「世にも奇妙な物語」を想起させられる)、レトロなテレビを通した形で本編へと進んでいく。

 そして、このようなメタ要素は、本編の選択肢として機能することになるのだ。ゲームシステムに関しての本作の白眉はこの点にあると考える。

 直接的な言及は避けるが、たとえば、コンフィグといったような、通常では物語に影響を与えないようなものが、事実上の選択肢として機能し、ゲームを進める上で、避けては通れないものとなっている。

 一般的に、このようなアドベンチャーゲームにおいて、プレイヤーの行動は選択肢として表示されることが多い。

 しかし、これには様々な問題があり、特に推理ものなどでは、全選択肢を試すことで答えに辿り着く、というようなことが問題になり得る。むろん、そうならないように様々な工夫がされることが多いが、本作では上述したようなメタ的な操作が意味を成すため、選択肢が事実上は増えている。

 これによって、プレイヤーが取りえる行動の幅が広くなっており、総当たりで正解を探す、といったことが難しくなっている。また、このような操作によって物語を進めることは一般的でないことから、印象に残る場面を作りだすことに成功している。



主体と主人公

 フレーバー(ゲーム内の設定)として、プレイヤーの視点主体と、各キャラクターの主体が分離していることは稀にある。それ自体が大きなギミックになっていることも多いので、各作品に関する直接的な言及は避けるが、挑戦的な作品や、名作が多いように思う。

 一般的にプレイヤーは主人公そのものだったり、主人公に感情移入して進めることになったり、群集劇だとしてもプレイヤー自体に意味は持たされないことが多い。そんな中で、では、これらを見ている、あるいは、それに干渉しうるプレイヤー(自分自身)とは、いったい何者なのか、というのは当然の疑問であり、それに答えるシナリオが評価を受けるのは得心が行く。

 本作では、フレーバー的にプレイヤーが明確な意味・設定を持たせられており、それがゲームシステム的にもシナリオ的にも上手く機能している。

 特に本作のようなチャート形式では、人物という壁を越え、時空間すらも超えて物語に干渉するプレイヤーという存在は、物語上で消化するには超越的過ぎる存在ではあるが、それをメタ要素として組み込んであり、物語の真髄に迫る設定となっており、面白い。



ゲームにおけるレイヤー

 振り返って考えてみると、ゲームはメタ要素を取り扱った作品がそれなりにあるように思える。特にノベルゲームは凝ったシナリオを取り扱えることもあり、比較的多いが、他のRPGなどでも見かけることも多い。

 他の媒体(たとえば、小説・映画など)でもメタ要素が取り扱われることはあるが、割合で言えば、ゲームの方が多いように感じられる。(これはあくまで筆者の主観なので、そんなことはないかもしれない)

 なぜ、ゲームではメタ要素がよく取り扱われるのだろうか?


 一つは、ゲーム自体が本質的にメタ的である、つまり、多層構造になっているという点が大きいと考えている。

 わかりやすいところで言えば、HUDやコンフィグ画面といった部分は基本的にゲームの部品でありながらも、ゲーム内ではない(「Dead Space」のように、その辺をゲーム内に取り込んでいる例もある)。よく、ゲーム内のキャラクターが『セーブ機能』や『ボタン』のようなものを直接言及することへの奇妙さ(たまに伏線だったりもするが……)を取り上げられることも多いように、ゲームというのは多層的構造を持っているのだ。

 アナログゲームにおいては、その机上に存在するものが物理的なすべてであることが多く、そこから先のゲーム内空間とでも呼ぶべき概念は、想像上のものだったり、主観的なものだったりするが、デジタルゲームでは、そのような部分(フレーバー的な部分)も一部表現することができる。

 それゆえに、メタ要素を取り扱いやすい。たとえば、「ULTIMATE MARVEL VS. CAPCOM 3」のデッドプールが、ゲージを武器にして攻撃するような演出は、まさにそれだと言えよう。ゲージというものはキャラクターたちが認識していないが、ゲーム内に存在するものである。それを第四の壁を壊せるキャラクターが持つ、という演出が成り立つのは、ゲーム自体が多層構造的であるからに他ならない。


 一つは、他の媒体との差異を出すためである。ゲームという媒体が取りえる形態は様々あり、たとえば、事実上の映画や小説(電子書籍)とほぼ等しいものをつくり、それをゲームと主張することはできるだろう。(それが本当にゲームと呼ぶべきものなのかは置いておいて)

 このような特徴を踏まえると、映画や小説といった他の媒体では表現できない部分で勝負する方が戦いやすい、というのは容易に想像できる。

 映画や小説というのは、(数多くの例外はあるが)基本的には単層の媒体と言うことができるだろう。画面に表示されているものが視聴者が見ているもので、同時に表現されているものに等しい。紙面に記載されている文字が読者が読み、表現されているものに等しい。前述したようなゲームの多層性とは異なると言える。

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