見出し画像

わたし、書く。

文章を書いて人生で始めて褒められたのは小学校6年生のとき。

卒業を控え、6年間の集大成である「卒業文集」を書いていた頃のことだった。
下書きを終え先生に提出したところ、翌日その先生がクラスのみんなの前で「さいとうさんの文集がとても素晴らしかったです」といって発表してくれた。

「そうなんだ、すごいな、さいとうさん、、、って私!?」
なんて漫画によくありそうなベタなリアクションをとってしまったのではないかと思うくらい、
みんなの前で褒められているのが自分であるということを理解するまでに少し時間がかかってしまった記憶がある。

だってそれまで文章を書いて褒められたことは1度もなかったし、国語の点数も普通、休み時間は図書室に行くことが多かったけれど、それは私が運動音痴でグラウンドで遊ぶのがあまり好きではなかったということと、絵を描いたりする才能も持ち合わせいなかったので教室で自由帳を広げて自分の描いた絵を見せあうグループに入ることもできなかったから、という理由に過ぎなかった。

当時の私は、自分は何をやっても人並み程度にしかならない“オール普通”な人間であるということに11歳ながら薄々気がついていた。
だからそんな私にとって、意図せず人から褒められるという状況に、きっと頭が追いつかなかったのだと思う。

それから現在に至るまで、私はあらゆる場面で文章を書いてきた。
高校の入試方法は面接と作文を選び、大学の卒論は誰よりも早めに仕上げた。卒業後はWeb制作の会社に入り、お客さんのホームページの文章を考える仕事をしたりもした。

文章を書くという場面において私は、決して自分からはハードルを上げず、「さいとうさんって意外と文章書くの上手いんだね。」と言われるのを涼しい顔をして待っていた。
私はそれを自分の武器として磨いていこう気持ちにはならかった。というより、なれなかったのだ。

「人から褒められて気がついた、もしかしたら自分が周りよりも少しだけ優れているかもしれないこと」
それが私にとって「文章を書く」ということだった。
だからこそ失敗や挫折を経験して、上には上がいるという現実をみるのが怖かった。
「もしかしたら優れてなんかいなかったのかも」と思うのが怖くて、必死に自分の中で守っていたのだと思う。

自分の書いた文章を初めて褒められたあのときから15年が経ち、気がつけば26歳になっていた。
周りの友達も徐々に結婚をしはじめ、中には親になり子供を育てている人もいる。

そんな友達を見て、焦らなければいけないという世間の空気感をなんとなく感じつつも、私にはその前にまだやり残したことがあるような気がした。

「自分の武器を使って完全燃焼すること」

周りの友達が新たなステージに進んでいる中で、私もフィールドは違えど新しい挑戦をすることを決めた。

私、思いっきり書くよ。
悔しさも嬉しさも「書く」ということで感じてみたいから。

私の思いを乗せた言葉が、それを必要としている誰かに届くといいな、なんてね。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?