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現役最年長Fリーガー金山友紀選手と歩んだ20年間の島根県のフットサル⑥

島根県サッカー協会の携わるようになり、20年目。

ボランティアとしての関りでしたが、出会いや別れ、そして多くの思い出と学びがありました。その記録と気持ちを全8回に渡って綴ります。

今回は6回目。今回は、サッカー協会に長きに渡って携わってきた自分自身の気持ちを振り返ります。

島根県サッカー協会に名乗りを挙げたころ

これまでのところでお伝えしたように、私は長きに渡って島根県サッカー協会に携わってきました。

自分が所属するフットサルのチームが中国大会で負けたことがキッカケです。試合に負け悔しい気持ちのやり場がなかった私は『サッカーの知識が欲しい』『勝利に導く知識を得て、チームを勝利に導きたい』…知識と情報を手にして強くなれば、私たちのチームも全国大会に手が届く気がしたのです。そして、島根県サッカー協会の存在を知り自ら手を挙げました。

サッカー協会に名乗り出る動機としては、少しヨコシマに感じる人もいるのかもしれません。しかし『チームを強くしたい』と言った強い気持ちが、私をサッカー協会と引き合わせてくれたようにも思いました。『これも、ひとつつの縁なのかも』と。

まさかの、チームの解散

お陰で、私たちのチームは2年連続で県大会優勝を果たしました。しかし、3年目には優勝できず、その数年後にチーム自体が解散してしまうことになりました。強かったチームなので外部のチームの多くは『なぜ、解散するの?』と、驚いていたのを覚えています。

チーム解散に至った理由は、試合に負けたことが大きな理由ではありません。メンバーそれぞれがフットサルを通じた自分自身の将来を考えた結果『解散』に至ったのです。と言うのも、チームメンバーのほとんどがサッカーとフットサルの二足の草鞋で活動していました。

仕事と家庭、プライベートに加えてフットサルをするのは大変なことです。その中で『本気で全国大会を目指すなら盛り上げよう、そうでないのなら解散しよう』と言う話でまとまりました。結果として、多くのメンバーがサッカーを選び私たちのチームは解散。

数名のフットサルを継続する意向のある子たちは別のチームへ斡旋をしました。※斡旋したプレイヤーの向かったチームは今現在、浜田市からFリーグに参加している母体となりました。

島根県サッカー協会に入ったことで『人のため』に動くことが喜びへ

はじめは『チームを強くしたい』といった自分の気持ちを優先して飛び込んだサッカー協会です。しかし、気が付くと『スポーツを通じて、人の役に立ちたい』『誰かを喜ばせたい』と思い始めていたように思います。

『人の役に立ちたい』と思う気持ちは、決して自然発生したわけではありません。サッカーやフットサルを通じて、励まし助け合いながら多くのサポートを享受する中で芽生え始めた気持ちだったように感じています。

たとえば、私が仕事で忙しくてフットサルに関わる時間が出来ない時期には、後輩が先頭に立ってフットサルを盛り上げてくれました。『フットサルの活動場所がない…』と困る中、体育館を貸し出してくれた学校関係者の方々にも心から感謝しています。また、子どもたちの参加を快諾してくれた親御さん方、私と共に島根県のフットサル普及に賛同し、活動してくれたフットサル仲間達に対しても、何度お礼を伝えても足りないほどだと感じています。

その感謝の気持を、どうにか行動に変えていきたいと動いてきました。振り返ると、フットサルを通じた活動の中で、誰かが喜んでくれる姿を目の当たりにすることが、巡り巡って私のエネルギー源となっていたようにも思います。

そして最後に、地元浜田市のフットサル普及に力を貸せてくれた金山友紀選手への想いを述べたいと思っています。そちらについては、次回の記事でお伝えすることとしましょう。

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