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現役最年長Fリーガー金山友紀選手と歩んだ20年間の島根県のフットサル⑤

サッカー協会の携わるようになり、20年目。

ボランティアとしての関りでしたが、出会いや別れ、そして多くの思い出と学びがありました。その記録と気持ちを全8回に渡って綴ります。

今回は5回目。前回の記事で紹介した金山友紀選手との出会いが、私にとってフットサルとの関りを深める大きなきっかけとなりました。今回は、浜田市でのフットサル普及の思い出話をいくつかしたいと思います。

フットサル教室の運営は大変

金山友紀選手の登場によって、小学生を対象としたフットサル教室をスタートさせる一歩を踏み出すことが出来ました。しかし、フットサル教室の立ち上げや継続は課題が多く、そう簡単なものではありませんでした。特にエネルギーを使ったのが人集め。子ども達は既にサッカーをしている子が来るのですが、フットサルとサッカーを天秤にかけたとき、どうしてもサッカーの方へ行ってしまいます。その頃フットサルが、大衆に認知されていなかったのもあります。とにかく、フットサルに継続的に興味を持ってくれる子を増やすのが大変でした。

また、場所を探すのも大変でした。ボールを蹴ってもいい体育館、且つゴールを設置してもいい場所が必要なのですが、ボールを蹴る競技は主に屋外で行われます。フットサルが主流でなかった当時は、場所探しに苦難しました。結果として、土日に限定した学校を借りていました。とはいえ、学校の体育館を活用して活動したいコミュニティは他にもあります。結果として、そのときどきで実施場所も開催時間も異なってしまうこととなり『なんとか継続していた』と言った感覚がありました。

そんな中でも、年を追うごとに認知度も高まり年々、フットサルイベントに人が増えてきているのは嬉しかったです。特に、フットサルの普及を共に目指した仲間が毎年行っていた大晦日の蹴り治めの会に、毎年顔を出してくれる子もいて嬉しかったのを覚えています。

「Futsal Hamada」の立ち上げ!

島根県サッカー協会の手伝いをはじめて感じたのは、私自身が感じていたフットサルについての情報不足でした。そのため、フットサルの普及が上手くいっている関東や中国エリアへ見学に足も運びました。当時、中国地方でフットサル大会の企画や情報発信を積極的にしていた広島のフットサル任意団体を参考に『Futsal Hamada』を立ち上げました。

立ち上げたからには盛り上げたい性分です。Futsalhamadaの活動を盛り上げるため、ホームページも立ち上げましたし、ホームページにリンクさせる形でブログでのフットサル情報発信も毎日行っていました。

その他、サッカー協会主体で地元浜田のフットサル大会『ハマダフットサルフェスティバル』も設けるように働きかけをしました。大人や子どものカテゴリに分け、どのようにすれば大会を盛り上げて行けるかと考えていたように思います。当初は浜田市中心だったフットサル大会でしたが、継続的な活動が認知されるようになり、次第に隣市にあたる益田市や県庁所在地の松江市からも参加してもらえるように。コツコツと続けてきた努力が実になっているのを感じることが出来ました。
※現在、コロナ禍で大会は中止

金山友紀選手のサポート!

あれこれと活動をしていたら、日本フットサルリーグ(Fリーグ)が開幕する年に、金山友紀選手の働きかけで金山選手が所属する「ペスカドーラ町田」の選手が数名浜田市に来てくれることとなりました。Fリーグの選手にフットサルを教えてもらえる機会なんてなかなかないので、集まってくれた子どもも、その親御さん達も喜んでくれたのを覚えています。

また、金山選手の試合が広島であるときに、浜田から観戦ツアーを行ったりもしました。バスを借りてみんなで応援に向かったのですが、道中ではグッズのプレゼントがあたるゲームを行ったのもいい思い出です。

当時を振り返ると…

当時は家業の立て直しもありプライベートがすごく大変な時期でした。それなのに、なぜフットサルの普及にこうして情熱を注ぐことが出来たのか不思議なことにも思えます。

ただ、こうして振り返ってみると地元のフットサルが盛り上げていくことが純粋に楽しみとなっていました。ときに息抜きとしてだったり、一方で暮らしの中でのエネルギー源にも繋がっていたりと、フットサルの活動がほどよいストレス緩和につながっていたように思います。

当時は、ひとり親になったばかりで育児で悩むことも多かったので、フットサルのイベントや大会に子どもを連れて行けることも嬉しかったです。そこへ行けば子どもも友達にあえて笑顔になっていたし、私の中ではフットサルの活動が『子育て』にも通じていたのかもしれません。

それに、サッカー協会は自分から手を挙げて名乗り出た組織なので、私が頑張らないと賛同してくれた仲間に向ける顔がなかったことでしょう。

さまざまな行動の中で起こるエピソード一つ一つが、私の行動の源になっていったように思います。それを見て、元気になる人が少しでも居てくれたら嬉しかったですし最終的には子どもたちが『楽しそうって思ってくれたらいいな』と願っていました。

次回は、長きに渡ってサッカー協会に長きに渡って携わった自分自身の気持ちを振り返ります。

頂いたサポートは、人を元気にするために使わせていただきます。