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『本とコンピュータのネットワーク』的昔話8

 錯綜する関わり

 人はいつだってそれぞれで、たとえばさまざまな感覚にしたところで、同じ「感じ」であるかどうかを確かめるすべはない。
 それでも、同じ、であることにしてゆく。その代表的な例が言葉というツールだ。
 もしかして誤解しているかもしれないが、チョムスキーという言語学者がいて、その人は「言語は生得的な能力として人間が持つ」とかいう主張をしているらしい。生まれつき、人は言葉を使うための能力を有している、ということになるだろうか。
(もちろん、英語と日本語は別で、日本人に日本語の能力が生まれつきあって、アメリカ人に英語の能力がある、というわけではない。言葉という記号から、自己の感覚や理解とを関連づけする能力、ということだろうと理解していいる)
 しかし、言語能力が生得的なものであったと仮定しても、個々の脳はみな微妙に異なるはずで、ならば感覚も、その感覚を表現する言葉も、確実に異なるのだが、それを前提としておいては意味をなさなくなる。
 とりあえず同じであることにする。
 もしかしたらこの、同じであることにする、という部分こそが、言語の本質なのではあるまいか。
 なにを言いたいかというと、言葉ってのもツールである、と言いたいのだ。道具なのだ、と言いたいのだ。
 それは、使い方が必須である、ということだ。高度な電子機器も、原始的な斧も、いずれにせよ使い方が必要で、それなしには機能しない。
 同様に、言葉も使い方が必須で、その原理として考えておくべきなのが、同じであることにする、という部分なのであろう、と。
 では言葉の機能とはなにか、と考えてみる。と、すぐに思いつく。それは「関わり」をもたらすツールだ、と。なんらかの関係性を簡単にするための道具なのだ。
 もちろん、その最大の目的は、人と人の関わりだ(ただし現在では、人以外の存在とも関わりをもたらすようになっている)。

 本、小説は、言葉によって関わりを構築する。その上で、そうした形を得ることによって道具として機能するようになる。
 出版という形も、同人誌という形も、パソコン通信も、まずは言葉を利用して機能を得て、人と人の関わりを生み出してゆく。
 それらは関連しあいネットワークとなり、さらなる機能を生じさせるのだ。
 思えば、私の記憶の中にある人との関わりは、そのようにして生まれたものだった。今はその大半を切り捨て(られ)てしまっているとはいえ、私の生きてきた道に、大きな存在として横たわっている。

 本を読むことから始まって、作家という存在に気づく。作家名を指標にして読む本を増やせば、徐々に自分というものが明確になり、それはきっと、つながるためのフックを付けてゆく段階だ。
 そのフックによってつながった相手との関わりこそは、その時代であり、その時代の私なのだ。
 まるきり素人であった時代に知り合ったイスカーチェリの前橋例会のメンバー。
 星新一ショートショートコンテストというフックによってつながったAんIのメンバー。
 ショートショートからミステリ畑に移って執筆をすることになったフックと、その時代の編集さんや作家さんたち。
 FSUIRIという場によって得られたフックと、そこで知己を得た人たち。そこから、それぞれに活躍の場を広げていったこと。
 そこから本格ミステリ作家クラブにつながり、知り合ったり、知り合わなかったりしたこと。
 いくつかの出版関連パーティのこと。
 そうしたことが、ネットワークとなり、場をもたらし、さまざまなエピソードを生む。そうしたエピソードを、この項では書き残しておこうと思う。
 大変申し訳ないが、そのエピソードがどういう時期のどういう状態で起こったものであるのか、ほとんど記録していないし、記憶もあいまいだ。もしかしたらなにかの思いこみかもしれない。
 それでも一抹の事実も含まれているはずだから、基本的に私自身の主観に過ぎないと言い添えて、つらつらと書き連ねてゆくことにする。
 おそらく、主にFSUIRI時代の話だ。

 星新一が亡くなった、というのは一九九七年の年末らしい。私も、お別れの会というものに参列した。
 ほとんど覚えていないのだが、寒かったことと、ほぼ確実に井上雅彦とはいっしょにいたのは記憶している。他に数人AんIメンバーがいたと思うのだが、それが奥田哲也だったか白河久明だったか、あるいは矢崎麗夜(この当時)であったのか、どうにも思い出せないのだ。全員かもしれない。
 大きな献花台だったと思う。なんとなく白くて丸かった印象がある。ずいぶんたくさんの人がいたと思うのだが、みんなさっさと献花して、それでおしまい、という感じだったろう。
 ただ、この直後に井上さんは『異形コレクション』のアンソロジストとしてデビューすることになった。このことが、なんだかとても象徴的なことのように思えるのだ。
 それから、あれはたしか『小説現代』かその増刊でのことだったと思うのだが、星さんの追悼ショートショート特集が組まれた。担当編集は宇山秀雄。そこに、矢崎さんが「ぶたぶた」初登場の「初恋」という作品を発表する。その後の矢崎作品を方向付けるかのようなこの作品は、ちょっとした天啓によって生まれたと聞く。こんな話も、星さんが亡くなったこととつながり合って、特別な意味を感じさせるのだ。
 小さな関わりが、なにか意味をもたらしてゆく。ただし意味というのは、その事象を意味づける者によっての価値しか持たない。

 FSUIRIは、アマチュアもプロも関係なく、それぞれに敬意をもって接する場であった。
 昨日までのアマチュアが、いつしかプロとして仕事をするようになる、ということもあった。
 普通に接していたメンバーが、実は有名な作家であった、ということもあった。
 もっとも、フォーラム内ではハンドル名で接することが多くて、本業について突っ込んだ話をすることは少なかったかもしれない。
 それでもたとえば、柴田よしき、黒田研二といったところは変なへだたりもなく、普通に接していたと思う。
 二階堂黎人や太田忠司とは積極的に関わったし、私と前後してデビューした新本格系の作家たち(綾辻行人、法月綸太郎、我孫子武丸)とも、多少の交わりがあった。
 特に象徴的だったのは、FSUIRIの全国大会(統一オフ)だったろう。
 オフミ、というのはオフラインミーティングのこと。つまりネット上ではなく現実世界で会って、飲み会したり食事会したりすること。ただ、私のいた頃のFSUIRIでは、オフミではなくオフと呼んだ。
 FSUIRIも徐々に大きくなって、全国にメンバーがいるものだから、各地でさまざまなオフが開かれた。それを、もっと大規模にやろうじゃないか、という話になるのも当然だったろう。
 これが全国大会、統一オフ。大阪、名古屋、東京と、たしか三度開かれたはず。
 で、大規模にやるなら、せっかくだからなにかしら企画をしてみよう、ということにもなる。
 こういう時、私自身はあまりリーダーシップを発揮したりせず、幹事役にほぼ一任。調整役や仲介役などはしたけれど、その程度でおさめていたと思う(いや、記憶に自信がないので、かなり出しゃばっていたのかもしれない)。
 ともかく、綾辻さん法月さん我孫子さんといった、フォーラムの表には出てこない作家さんたちもゲストに招いて、パネルディスカッションをやったり、大喜利のようなクイズ大会のようなことをやったりした。
 彼らは、気軽に飲み会などにも登場してくれて、メンバーたちと談笑したりもしたのだから、ある種の人には夢のような時間だったのではあるまいか。今さらでも「うらやましい」と思う人もあるだろう。
 ともあれ私にせよ彼らにせよ、三十代だったはずだ。まだ若かった。
 私自身のことから考えるなら、大阪の時にはたしかもう結婚していて、名古屋の時には赤ん坊だった娘(二次会オフのさなか、おもらしされて大騒ぎ)がいて、東京の時にはもうちょっと大きく(山手線で移動中に泣かれるものだから、一駅ごとに降りていた)なっていた。
 そんなふうに時間は流れていたのだ。
 たしか名古屋の時には犯人当て的小説を執筆して公開したんじゃなかったかな。あの原稿、どこにあるかなあ。あったとしても、たぶんフロッピーの中で、読めそうにない。
 そんな形で手が出せなくなったファイル、文章もたくさんあるはずだ。紙に印刷してあれば復活も可能なはずで、たぶん家の中にそういうのも存在しているはずなのだが、とうてい整理がつかずにいる。

 あるはずだ、で言うならニフティの会員向けマガジンに連載を持ったことがあった。これまた忘却の彼方なのだが、現在は評論家的活動をしている村上貴史(ハンドル名はたしか・・・)に協力してもらって、懸賞犯人当てでやったはず。たしか「オンライン トゥデイ ジャパン」。もっとも、あまり反響はなかったみたいである。

 ニフティで電子書籍のはしり、みたいなことをやった時にも長編を公開している。たぶん数人くらいしか購入しなかったんじゃないかな。こいつのファイルは、まだ未練がましく持ってるはず。
 すっごい自信作だったんですよ(こう書くのは。たぶん現物が出てこないだろうと思ってるからで、本当のところあまり自信はない)。
 今思うに、私の作品のほとんどが、20年ほど先取りした狙いをもっていたようだ。それでいて当時の社会に合わせようと、説明的に書いていた。しかし私自身の技術的教養も不十分だったし、なんとも中途半端な作品ばかりだっただろう。
 たとえば天山出版でボツになったある作品は、ネットにおける集合知を探偵にしようというアイデアだったが、そういう事例が表に出てくるのは十年以上経って、ツイッターが多く使われるようになってからだろう。少なくとも、出版という形にして商品価値がでるような状況ではなかった。
 もっとも、この作品がボツになった理由は「うちの会社はネットにアレルギーがあるのです(そういう作品が大コケした)」だったが。いやあ、なんて時代だろうねえ。

 FSUIRI以前、FADV時代に知り合った関口苑生、松村光生といった人たちとは、フォーラムが変わってからはほぼ交流はなかった。唯一、井上夢人さんには、推理作家協会に加入する時にお世話になっている。
 推理作家協会は、会員と理事の二名による推薦が必要だった(と思う)。なぜそんなところに入会することになったかというと、健康保険だ。国民健康保険というやつは保険料が高い。収入と連動して高くなる。ある日、結婚して(医師であった妻の所得も家族内所得ということになって)健康保険の金額が増えてびっくりして、対策として推理作家協会に入れてもらうことにしたのだ。
 作家というのは収入も不安定で、時としてふいに増えたりもする。これは健康保険向きではない。そこで、ベストセラーが出ようと売れなかろうと、なんとか支払えるくらいの保険料で維持されるような健康保険があればありがたい、ということになるわけだ。
 なんやかやあって、十数年後、妻の勤める病院の健康保険に、私が扶養で入る方が良い、という結論が出た頃、私も推理作家協会を去ることになるのだが。
 ともあれ、推理作家協会の会員ということになる。
 一度か二度、総会というものにも参加した。が、基本的には委任状の会で、長くやってゆくのも大変だなあ、と思ったことを覚えている。そのわりに、会費というのはそこそこ取られていたわけだが。
 それでも、協会員になれば各種パーティに呼ばれることになる。基本は乱歩賞の授賞パーティと新年会だったかと思う。
 酒も飲まないし、わりかし人見知りもする私には、少しばかり気が重いところもあったが、そこでの人との関わりは貴重でもあった。
 なにしろ当時の出版界は、コネがものを言う世界で、あまりコミュニケーション能力が高くない作家なんていうタイプの人間は、なかなかそのハードルを越えられない。けれどパーティでは編集さんもいて、紹介したり紹介されたり、ちょっとした仕事の話をしたりできる。
(余談だが、乱歩賞パーティに初めて参加した頃には、会場である帝国ホテルの宴会場には、あでやかな女性が多数徘徊していた。てっきりホテルの職員かと思ったら、実は近くの銀座のバーへの客引きがてらの接待要員であった、と知る。まだ作家さんたちがそういうお店につどっていた時代の名残だ)
 コロナ騒ぎでその機会は減ったと聞くが、若い作家さんたちはネットなどをうまく利用して機会が減ったことへの対策はできているのだろうか。編集さんの方も新しくなっているのだから、きっとなにかあるのだろうが。
 ともあれパーティは、意図していなかった出会い、というのが貴重だったわけである。
 そう。なにかのきっかけで、若手作家の集まりみたいなものに声がかかったりもする。
 たとえば「雨の会」という集まりがあった。宮部みゆき、井上夢人、東野圭吾、折原一といった人たちと言葉をかわすきっかけになった。
 東野さんがカップ焼きそばの作り方について力説したり、アルコール分解酵素を持たない井上(夢)さんが、スポイトでアルコールを増やしながら挑んだ、なんて話を聞いたりした。
 島田荘司と話せる機会も生じた。けれど、私は臆して近づかなかった。挨拶程度だ。というのも、私は本格ミステリという道を歩んでいない、と自覚していたのでちょっと怖かったのだ。それに、デビュー時にペンネームをつけてもらう、という話もお断りしていた。

 パーティで出版社の、とりわけ編集さんと話すのは次の仕事につなげるために必要だった。
 講談社の宇山さん。最初に私に次の仕事をもたらしてくれたのは徳間書店の松岡さん池田さん。それから天山出版の土屋さん。大陸書房の松澤さん。廣済堂の染宮さん。原書房の石毛さん。
 と、こう並べてみると、私がプロ作家でなくなったというのも仕方ないと思えるメンバーである。私の本なんか出すから潰れたのだ、みたいな。
 大陸書房は、副業の失敗で倒れ、その関連会社であった天山出版も倒産。廣済堂は、文芸書籍からの撤退、という形でとかげの尻尾切り。宇山さんは亡くなったし、池田さんは小説とは別の部門に異動していった。
 まあ、ある時期にはそういう廃刊請負人みたいな伝説も生まれやすかっただろうと思う。私以外でもそういう話はあった。出版というビジネススタイルが、変貌してゆく時代でもあったのだ。
 本という印刷物を作って、その作った数で報酬を発生させる印税という仕組みは、いろんな事情やらしがらみやらで維持されてきたわけだが、その本質は印刷製本の技術と密接に絡み合っている。だから、その技術が変わり、あるいは電子書籍という黒船が来れば、本来なら新たな収益システムへシフトしなければならなかった。
 三十年以上前から、そのことを何度となく説いてはみたものの、出版界の反応は薄かった。
 今、というシステムにしがみついて生きて行こうとしている人たちを相手に自説を主張するのは、空しいばかりではなくそうした人たちの糧を奪う道ではないかと、ある時期に思い至って、まずは推理作家協会を、ついで本格ミステリ作家クラブから身を引くことになるのだが、まあ、それは錯綜した後悔もどきの感情である。
 たぶん、私にはどうすることもできなかったのだ。

 本格ミステリ作家クラブは、二階堂さんからのお誘いで入会することになった。
 本格ミステリ大賞を設けて、本格ミステリを褒賞しようという集まり、ということだったと思う。この試みに、若干の不安とそれよりちょっと大きな期待を感じていた私にも、ある事件が起こった。それが原書房のミステリリーグの一冊、『たったひとつの』に関するお話。
 実は、この賞が始まった時に、候補をどのように決めるか、という話があったかと思う。しかしながら、ここは本格ミステリというものに対する本質に関わるところだ。簡単に決めるわけにはゆかない。会員による投票で決めてはどうか。その上で最終候補作を選び、投票する人は候補作をすべて読了しているものとする、と。
(うん。こう考えること自体に問題があるとは思う。なぜなら、会員を増やしたいというバイアスは常に働いているわけで、であるならば、「優れた」という評価軸が多様化するのは必然で、とすれば、大賞を選定する、という行為そのものがあやふやになるからだ)
 この賞が始まって二年目、私の作品『たったひとつの』が発売となった。これは本格ミステリに注力しようという感じになっていた頃の原書房の本だ。さてこの年、会員による候補作の選び出しという話になり、最終候補を選ぶ投票の前に対象となるべき作品(発行がこの年である本格ミステリ)のリストが作成され、会員に送られてきたのだった。
 だが、その対象作品リストに私の名前がなかった。
 誰が作ったリストであるかは知らないが、これは由々しき事態であると思った。少なくとも、私は強く本格を意識して書いたし、版元である原書房に対して申し訳ない気分だった。優れているかどうかはさておき、本格ではない、と最初から判断されたのでは納得できない。そこで本格ミステリ作家クラブの事務局に問い合わせた。「なぜ、私の『たったひとつの』が対象リストに入っていないのでしょう」と。
 この質問に対して、どんな返事があったのか覚えていない。いや、返事はなかった可能性もある。そのかわりというのではないが、『たったひとつの』が最終候補に入れられていたのである。
 これもまたひどく気分の悪いことだった。なんだか、無理矢理自分の作品を候補にねじこんだかのような座りの悪さだ。とはいえ、ノミネートを断る、というのもますます奇妙な話であるし、なにより、最終候補に入れてもらえれば投票する会員が読まなければならなくなる。いろんな目利きが読んでくれることになる。なにか言ってもらえるかもしれない。この魅力には抗し難かった。
 結果、受賞作は『ミステリオペラ』山田正紀。
 自作が受賞しない自信があった私は公開開票の会場にいた。結果をながめているうちに、ああそうか。そうなんだろうな、と、ひどく冷めた気分になったことを覚えている。山田さんはずっとあこがれの作家だったし、『ミステリオペラ』が魅力的な大作であることは十分に認めながらも、本格として評価するなら『人喰いの時代』よりも劣る、という印象だった。本格ミステリとしてなにかを為す、というよりも、本格ミステリの空気感を踏み台にした、もっと別のなにか、と感じていた。
 にも関わらず、その作品を選ぶというのが、多数の会員の価値観であるのならば、私のやろうとしたことは無意味だと感じた。
 授賞パーティで何人かの作家さんから、「ここまで差がつく印象じゃなかった」というような慰めをいただいたのだけれど、私としては「そういうことじゃない」だ。
 たとえば赤の絵と赤紫の絵があって、私にはまず赤いことが評価の軸だったのに、赤紫も赤のうちだし、こっちの絵の方が好きだから、とみんなに言われたような気分。
 赤い絵コンテストじゃなくて、赤っぽい絵コンテストだったのだな、と。
 それでもまあ、本格ミステリ大賞のパーティには出続けていたが、やがて二階堂さんが先に退会し、数年後には私も退会していた。これがたぶん、自分がプロ作家ではなくなったということだと思う。
 それまでも、パーティには出たが、二次会以降はほとんど出席しなかった。それは特に二千年以後、群馬の自宅に介護すべき家族があったこととも関係している。最初は父、父が死んですぐに妻がそうなった。コネクションが重要である出版業界においては、とても大きなポイントだったはずだ。
 ただしそれ自体は、私自身にとって悪いことではなかったとも思うのだ。プロの作家であり続けようとする努力は、つまるところ優れた商品である作品を書こうとする努力に等しい。それは決して悪いことではないが、私の資質にはおそらく合わない。私はただ、私にとって価値がある作品を書いていたいのだ(こういうのを、ひとりよがりと言うのである)。

 話は変わって・・・。
 FSUIRIは、多くの人材が集まる場であったから、相互作用が働き、そこで力をつけていった人も多くいた、のではないかと思う。
 自信のない言い方だが、細かいところまで目が行き届いていなかったことは認めざるをえない。トータルで二万人を越えたグループだったし、その1%がアクティブであったのだとしても二百人。目立つ活動にはそれなりに気も回るが、それぞれにオフも開かれるし、PATIOというニフティのサービスを使えば、個人でミニフォーラムが作れたから、フォーラムで仲良くなったらそういうサービスに移動することだってできた。
 もちろん、私はどちらかというと奨励する立場だったけれど、ひとりで全部は把握できない。いや、把握できないくらいで良いと思っていた。
 というわけで、FSUIRI後にいろんな人のいろんな活躍があったらしい、ということは気づいていても、具体的には分かっていない。
 ただ、横溝正史のファングループや絶版本のマニアたちが商業出版の世界に顔を出したことは間違いなく、きっとその他にもいたに違いないと思う。
 考えてみればFSUIRIという場は、ある時代にアクティブにファン活動しているような(つまり力がある)人なら、ほとんど全員が少しくらいは関わっていたのではあるまいか、そう思えるような空間だった。
 ただし、パソコン通信の、ニフティの、独特の文化みたいなもの自体が一過性にすぎなかったのも確かだ。だからきっと、そこには多少の断絶が存在している。スマホによってネットにふれることになった大多数の人は、また別の感覚を持っているはずだから。
 とはいえ、あんな人もそんな人も、おのおのの「好き」によって動いてゆくのだから、交わることもあるだろう。出版やら映像制作やらで、なんらかの実りがあったとしても当然だろうとは思うのだ。

 人との関わりというのは、自らに多くのフックがあってより広がる。
 FSUIRI当時の私にはそういうフックもいくらかあって、なんらかの集まりに加わって、勝手なことをほざき散らしていたはずだ。
 だからたとえば、歌手の谷山浩子に会ったのは、綾辻さんがらみだったかと思う。
 綾辻さんとは、たしか大阪のSF大会の時にいっしょにカラオケしたような記憶がある。
 たぶんそういう経緯のひとつとして、小野不由美と少しだけ話をしたようにも思う。たぶん、お会いしたのはその一度だけだろう。いや、軽くご挨拶する可能性があったはずの機会を思い出すのだが、具体的な記憶がない。
 唯一の会話の機会は、横浜だったかのSF大会(調べてみると1992年のことらしい)の後、新本格がらみのメンバーが誰かのホテルの部屋に集まって、ダベったことだったかと思う。この場所に、ひょっとしたら谷山さんもいたのかもしれない。お会いした記憶は別の場所であったが、同じSF大会だったし同じ綾辻さんがらみだったはずだから。
 さてこの少し前、私は「縺 七重八重」という作品を日本ファンタジー大賞に送って、あっさり落選していたのだが、それが話題になったのだ。
 すでにプロになっているのに、なぜ新人賞に送るのか、ということを小野さんに尋ねられたように思う。それに対して、「書きたいものを書いて、それを受け止めそうなところに送った」みたいなことを話したはずだ。
 小野さんが『東亰異聞』で日本ファンタジー大賞の最終候補になった(出版もされた)のが翌年のことだった。だからもしかしたら私は、あの時に小野さんの背中を押したのではないか、と妄想してしまう。それが小野さんと新潮社の縁になって、結果『魔性の子』が、ひいては十二国記が書かれることになったのではないか、と。だったらすごいぞ、と。
 まあ、現実的には、新潮社といえば新本格にも明るい編集者・大森望の存在があり、おそらく小野さんには出版エージェントが関わってもいたろうから、妄想は妄想の域を出ないだろうとも思うわけだが。

 すっかり埃をかぶって、ほんのぼんやりとしか思い出せない、それでいてきわめて大切であるはずの記憶というのもある。
 たとえば、自分が高校生だった時に、ある意味あこがれの存在だった新井素子とも会ったことがある、はずなのである。
 手元に残っているかどうかすら定かではないのだが、その時に記念撮影みたいなこともしたはずなのだ。
 いったいどういう経緯だったのかというと、おそらくだが、ある本の刊行を祝った会だったのではあるまいか。オリジナルアンソロジー『悪夢が嗤う瞬間』ケイブンシャ文庫の、参加メンバーが集合していたように思うのだ。この本の参加者は私の他に、井上雅彦、太田忠司、奥田哲也、小中千昭、津原泰水、早見裕司、矢崎存美が参加。ショートショートのオリジナル本だ。
 しかしそのメンバーに新井さんはいない。
 新井さんといえばSF作家クラブの会長をしていたことがあるはずで、その時の事務局長が井上さんだったかと思う。このあたりが関係しているのだろうか。
 さっぱり分からない。
 本の編者は太田さんで、原稿はニフティのPATIOで集めたような記憶がある。
 なんだか楽しい仕事だったみたいで、私の作品がやけに多いのである。

 作家が集まってオリジナルアンソロジーを作る、という企画なら『架空幻想都市』ログアウト冒険文庫なんてのにも参加している。メンバーは(上)で、妹尾ゆふ子、岬兄悟、小野不由美、神代創、太田忠司、菅浩江、矢崎麗夜、久美沙織となかなか豪華。下巻もあって、そっちもけっこう豪華だったはず。
 この企画は、軽井沢あたりで合宿企画があったかと思う。もしかしたら、スケートとかしたかもしれない(大人になってから一度だけスケート場に行ったはずなのだが、それらしい場所が軽井沢くらいしか思いつかない)。
 ともかく、みんなで集まって、みんなで共通テーマを決めて、ばたばたと原稿を集めたのだ。作品の出来は、まあ、そこそこというところか。ただ、集まって遊ぶ、そして小説も書く、というのは、とても幸せなことであると思うのだ。読者無視、ではない。読者もまた、そういう遊びに加わっていたのだと思う。

 ニフティといえばFSUIRIだけではない。
 会社が儲かっていた頃には、SYSOPを集めたパーティなども開かれた。
 FBOOKやFSF、FCOMICやFMOVIEといったところが比較的近しい関係だったはずだ。
 実はFCOMICのSYSOPは、ある時期、AんIの支倉槇人だった。FMOVIEのサブシスには矢崎麗夜がいた。
 こうしたメンバーでパーティをやったのだが、さて、どこでやったのか覚えていない。けっこう大きなホテルだったと思うのだが。
 フォーラムには多様な種類があって、技術関係のものなども少なくなかった。
 FMOTORのすがやみつるさんは、もちろん高名なマンガ家だけれど、小説本も出していて、その関係だったのかFSUIRIにも来ていたと思う。
 なにか話したとは思うのだが、そういうことはさっぱり覚えていなくて、顔見知りのメンバーが一カ所に集まっていて、なにをしてるかと思えばキャビアを独占していた、みたいなしょーもないことだけ覚えているのだった。

 パーティといえば・・・。
 なんとなくSF作家クラブには近づかなかった。少し嫌な空気を感じていた。それでも、SF大賞を主催する形になっていた徳間書店から本を出していた関係で、一時そのパーティには呼んでもらっていた。
 たしか日比谷公園にほど近い東京会館という会場で、プロになってからもあこがれの存在だった作家が多数顔を見せていたが、あこがれの作家には近づかないようにしていた。あこがれの作家というのは、作品が好きであこがれているのであって、作者は別なのだ、ということを承知していたからだ。
 それでも、会場の隅っこに、なんだか手持ちぶさたにしている星新一の姿なんて見かけると、「挨拶せねば」の思いで近づいていったものだった。
 そうして、そのつど自己紹介していたのだ。
 おそらく、星さんと最後に会ったのもこのパーティの会場だったろう。
 なにも意味のある会話なんてしていなかった。おそらく今の私と同じくらいの年齢だったのではあるまいか。もうちょっと、話しておくべきことがあったのではないかと、後悔めいた思いが湧いてきたりもするけれど、たぶん、そんな機会などなかったのだ。

 そのほかにも、パーティがらみで会ったり話したりした作家さんたち。高校時代なら夢物語だと思うかもしれないが、たとえば本格ミステリ大賞のパーティ待ち時間に、辻真先さんのたちとのコーヒータイムに混ざったこと。乱歩賞のパーティで、難波弘之さんに「読んでますよ」と言ってもらえたこと。二次会への移動時に、周囲に名だたる作家さんたちがいると気づいて「ここにミサイルでも落ちてきたらおもしろいなあ」と思ったこと。
 挨拶程度から少しくらいは会話もした作家ということなら、今野敏、大沢在昌、京極夏彦、久美沙織、芦辺拓、飯野文彦、石持浅海、鯨統一郎、斎藤純、矢島誠、法月綸太郎、我孫子武丸、風見潤といったところか。

 各種パーティは、考えてみれば、普通は会わない人たちと実際に会う機会だったので、たとえネットがらみではなくたって広義のオフラインミーティングだったのかもしれない。
 さて、何度となくあった、オフ、と呼ばれたそういう集まりで、なにかひとつを取り上げるとすれば、たぶん、私自身が全国を移動して開いたオフ、であるだろう。こういうのは通常なら迎撃オフと呼んだ。つまり、地元の人が来た人を迎える、という意味。
 けれど私の場合は、ちょっと意味が違った気もする。
 そもそもは私自身の結婚から始まる。
 相手が鹿児島の人で、私が群馬在住の人だから、自動車など含めて移動する必要があった。ならば、自動車であちこち移動しながら新婚旅行でもないが全国の人、FSUIRIメンバーに会おう、という企画にしてしまったのだ。
 まずは鹿児島で鹿児島在住メンバーとオフし、九州を縦断、別府で休んで翌日は小倉でスペースワールドのオフをして倉敷に移動。さらに京都でオフ。名古屋でオフ。翌日には群馬に行けるスケジュールだったが、あえて長野は小諸で一泊、というコース。
 その後、本州で終えてしまわず北海道にツアー参加して自由時間にオフ。
 バタバタとあわただしく、だからこそ楽しく、そういう年だった。
 けれどきちんとまとまった記憶はもうない。あの当時、オフレポというやつをやった気もするのだが、さて、どこにあるものやら。
 例によって断片だけが残っている。
 スペースワールドの見学中、なにやら緊急事態回避のためにスイッチをひとつ押してくれ、と頼まれた茶番劇。無重力体感のアトラクション。
 倉敷では、なぜだかオコゼが夕食に並んだこと。
 京都では、どういう経緯だったか我孫子武丸さんの自宅訪問となり、ストリートファイターⅡでボコボコにされたこと。
 名古屋はひつまぶし? いやみそカツ? アーケード街を歩いて二階の喫茶店に入ったはず。なぜだろう、無印良品という言葉が浮いている。
 北海道では、たぶんカニ食べ放題。あるいはラーメン横町の店主が無愛想だったこと。オフではないが、函館でホテルを抜けて夜の古本屋を訪れた。
 ほとんど意味をなさないような断片たち。たぶん、私以外の人たちには、もうちょっとましな記憶があるんだろうなあ、と思う。

 さて、前の章でハンドル名を列挙したところ大きな反響があった。ついでに、これを忘れちゃあいませんか、という指摘も。
 正直、とうてい全部は網羅できない自信があったので、どうせ無理ならと少し手を抜いたのだった。けれど、そのせいもあってか多くの人の思い出が甦ってしまったみたい。
 というわけで、指摘のあったハンドル名をここに追加しておく。
 MEW、友野健司、本郷(義秋?)、不在者、九尾の猫、ひろむ、くさか、玲美、こまった狸、zenny、かめやっこ、藤巻、葵、乱、西尾忠久、石井春生、魚返慶太郎、天野真奈
 たぶんまだまだ忘れてる。そのことは申し訳ないのだけれど、私だけではどのみち無理なのです。機会があれば、今のうちになにか残しておいていただきたい。

 それでも、とにかく、こうして言葉にして残す。すると誰かが読んで、改めて関わりを構築できるはず。
 言葉という発明が、どのようにして為されたかを知る方法があろうはずもないが、おかげさまで、こうして時空を越えた関わりを発し、受け取ることができるのだ。
 チョムスキーに言われるまでもなく、我々には、そうする能力がある。

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