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皇兄弟による皇位継承は過去に24例。次の御代替わりは異例にあらず(2020年5月24日)


前々回、前回に続き、『帝室制度史 第3巻』(帝国学士院編纂、昭和14年)の第2章皇位継承、第1節皇位継承の本義を読みます。


今日は「第3款 皇位継承の順位」、これが最後になります。原典はむろん国会図書館デジタルコレクションです。〈https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1241583



▽1 古来、一定の常典あり



『帝室制度史』は皇位継承順位について、古来、一定のルールがあったこと、しかしながら明治以前は成文法として定められることはなく、ときには異例が生じたことを解説しています。

「皇位継承の順位に関し、わが国古来おのづから一定の常典として見るべきものありたることは、史上にこれを窺ふことを得べし。
ただ、明治天皇の皇室典範制定に至るまでは、この点につき、成文の常規をもって、これを確定せるものなく、皇嗣は一定の常規に従ひ、当然に定まるにあらずして、あるいは勅命により、あるいは遺詔により、あるいは院旨により、あるいは権臣の推戴により、あるいはその他の事由により、臨時冊立せられたるものなるをもって、ときとしては、この常典によらず、時の事情に応じて、異例として見るべきものを生じたること尠しとせず」

しかしこれまで読んできたように、皇位の継承は皇胤に限られ、皇統は男系に限られます。皇位は一系で、直系の子孫へと継承されます。これが皇室のルールです。

「皇位は天皇直系の子孫に伝ふることを正則となす。
綏靖天皇の、神武天皇のあとを承けたまひしより明治天皇に至る121代の間、皇子の皇位を承けたまへるは60例、別に皇女の継承したまへる3例あり。
そのほか皇孫の皇祖父母のあとを継ぎたまへる2例をあはせて、直系の皇子孫の皇位を承けたまへるは65例に及べり」

65例ということは直系子孫以外の継承があるということです。ひとつは皇兄弟への継承です。17代履中天皇のあとの18代反正天皇が初例でした。

「皇兄弟の皇位を承けたまへるは、履中天皇の皇弟瑞歯別皇子(みずはわけのみこ。反正天皇)を立てて皇嗣となしたまひ、反正天皇崩ずるののち、皇弟雄朝津間稚子宿禰皇子(おあさづまわくごのすくねのみこ。允恭天皇)群臣に迎へられ、皇兄弟相次ぎて皇位に即きたまへるを最初の事例となす」

皇兄弟による継承は過去に24例ありました。したがって次の御代替わりは25例目ということになります。

皇兄弟間の継承のあり方もさまざまでした。

「爾来、皇兄弟の皇位を継承したまへるもの、合はせて24例に達せり。
そのなかには、皇子まさざるによりたまへるもあれど、皇子孫ますにかかはらず、なほ皇兄弟の継承したまへる例も尠からず。
皇兄弟の皇位を承けたまへるは、皇兄または皇姉のあとを承けて、皇弟の践祚したまへるをふつうとなせども、ときとしては、皇兄のかへって皇弟のあとを承けたまへるもあり。
このほか皇姉の継承したまへる3例あり。
皇兄弟の子孫の皇位を継ぎたまへるは、成務天皇のあとを承けて、皇兄日本武尊の御子仲哀天皇の即位したまひしを最初とし、合はせて8例あり」


▽2 さまざまな変則



次の御代替わりの場合はいうまでもなく、「皇子まさざる」が原因ということになります。もちろん過去に例がないことではありません。『帝室制度史』には後桜町天皇までの皇兄弟皇姉による継承、皇兄弟の子孫による継承が一覧表で載っています。

もっと珍しい例があることを『帝室制度史』は説明しています。

「さらに特殊の異例として見るべきものには、皇叔父、皇伯叔父の子孫、またはいっそう遠き皇親の皇位を継承したまへる例もあり。
武烈天皇崩じて嗣なく、継体天皇の群臣に迎へられて皇位に即きたまへるは、近き皇胤のまさざりしによる異例なり。
円融天皇ののち、後一条天皇に至るまで、冷泉天皇、円融天皇の御子孫かはるがはる即位したまひ、
亀山天皇ののち数代にわたり、後深草天皇、亀山天皇の両統迭立のことありしは、ともに特殊の事情に例として見るべく、
承久の変ののち、後堀河天皇の迎へられて皇位に即きたまひ、
南北御合体により、後小松天皇の後亀山天皇のあとを承けたまひしは、ともに国家一時の変運に基づく異例なり。
いづれも常典となすべきにあらざるは言を俟たず」

今日、「愛子さま天皇」の即位を熱望するあまり、秋篠宮親王殿下が皇太弟の地位にあることがさも異例であるかのように喧伝する人がおられるようですが、間違っています。

『帝室制度史』は庶出のケースについても言及しています。過去には非嫡出の皇子による皇位継承もありますが、その場合にもルールがありました。

「皇子孫の皇位を承けたまふは、古来嫡出をのちにするを正則とせり。
史上庶出の皇子の皇位を継承したまへる例も少なからざれども、その多くは、嫡后まさず、または嫡后に皇子の庶出なく、または嫡出の皇子の早世ありたる場合にして、しからずして、庶出の皇子の嫡出に先立ちて即位したまへるは、むしろ異例に属す。
ただ、中世以降、天皇の御正配もかならずしも皇后冊立のことなく、嫡出と庶出との区別、往々判明を闕くものなきにあらず」

皇位継承に長幼の序があることはいうまでもありませんが、ときにルールが守られないこともありました。

「皇子孫の皇位を承けたまふは、また同親等の間においては、長幼の序次により、長を先にし幼を後にするを正則とす。
時として、弟の兄を越えて皇位を承けたまへる例あれども、おほむね特殊の事情に基づく異例なり。
たとへば、綏靖天皇の皇兄神八井耳命(かんやいみみのみこと)を越えて即位したまひしは、弟皇子の功績に対し、兄皇子の辞譲したまひしにより、
円融天皇の皇兄為平(ためひら)親王を越えて皇位を承けたまひしは、御父村上天皇の叡慮により、かつ外戚の関係によるものありしがごとき是なり」


▽3 男系継承の理念は?



もうひとつの特殊事例は重祚です。2度の例があり、いずれも女性天皇でした。

「皇位継承のひとつの異例として、なほ重祚のことあり。重祚とは天皇ひとたび譲位ありたるのち、時を経てふたたび皇祚を践みたまふをいう。
史上ただ、皇極天皇の重祚して斉明天皇となり、孝謙天皇の重祚して称徳天皇となりたまひし2例を存するのみ。いづれも女帝にして、当時ともに特殊の事情ありしによる」

最後に、『帝室制度史』は明治の皇室典範制定について触れ、成文法による規定の意義を強調しています。争いが起きないようにするためでした。

「皇室典範の制定せらるるに及び、祖宗の遺範にしたがひ、古来の常典とするところに則り、はじめて成文の常規をもって、皇位継承の順位を一定し、皇嗣は冊立によらず、法定の順位にしたがひ、おのづから定まるの制を確立したまひ、もって将来ながく継承の疑義を断ち、ふたたび紛争を生ずるの余地なからしめたり」

しかし戦後、皇室典範は改正され、一法律となり、皇位継承をめぐる論争の火種を作ることになったのは皮肉です。

以上、3回にわたり、『帝室制度史』が解説する「皇位継承の本儀」について読んできました。前回も述べたように、結局、『制度史』は皇位が男系継承によって一系で紡がれてきたことを説明するものの、なぜそうなのか、神勅と歴史以外には根拠が見出せていません。男系継承の歴史の背後にどのような理念が込められているのか、現代人を十分に納得させ得る説明ができずにいます。

『帝室制度史』は当時の錚々たる法学者や歴史学者、国文学者らが参画していましたが、それでも限界があったということでしょうか。当然、昨今の女系容認派への決定的反論を提示することもできません。






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