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「皇統は男系に限る」と断言しつつ、根拠は神勅と歴史以外に見当たらない『帝室制度史』(令和2年5月10日)


しばらく皇位継承のあり方について、考えてみたいと思います。今日は『帝室制度史 第3巻』(昭和14年)を読みます。

『帝室制度史』全6巻は戦前、帝国学士院(いまの日本学士院)が編纂しました。6巻すべてが「第1編 天皇」に当てられていて、第1・2冊は「第1章 国体」、第3・4冊は「第2章 皇位継承」、第5冊は「第3章 神器」、第6冊は「第4章 称号」という構成です。

「第2章 皇位継承」は「第1節 皇位継承の本義」「第2節 皇位継承の原因」(以上、第3冊)「第3節 皇位継承の儀礼」「第4節 皇嗣」(以上、第4冊)から成ります。

私の問題関心は、なぜ皇位は古来、男系継承なのか、なぜ女系は否認されるのか、であり、したがって今日、これから読もうとするのは、第2章の第1節「皇位継承の本義」ということになります。

まず「第1款 皇位継承の資格」です。読者の便宜に配慮し、多少の編集を加えることとします。原典は国会図書館デジタルコレクションにあります。〈https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1241583


▽1 皇祖神の神勅に基づく皇統連綿



「大日本国皇位は、皇祖、国を肇めたまひしより万世一系、皇胤子孫これを継承したまふことは、わが国家の大法にして、古今に通じ、永遠にわたりて変することなし」

当然のことながら、『帝室制度史』は開闢後の歴史から説き起こし、肇国以来の万世一系、皇統連綿を強調しています。永遠の大法だと指摘している点も見落とせません。

「はじめ天照大神、皇孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)をこの土に降臨せしめたまひてより、その御子彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、その御子鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)、相承けて統を継ぎたまひ、鸕鶿草葺不合尊の御子すなはち神武天皇にして、第一の天皇と仰ぎ奉る。これよりのち、皇統連綿、子孫相承けたまひ、宝祚の隆なること天壌とともに窮なし」

『帝室制度史』は皇祖神から初代神武天皇までの歴史を簡単に振り返り、皇統が皇胤に限られる根拠は皇祖天照大神の神勅に基づくと指摘しています。皇祖神が天孫降臨に際して、瓊瓊杵尊に三種の神器を授け、「葦原千五百秋瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり」などと、いわゆる天壌無窮の神勅を与えられた物語はよく知られています。

「皇位を承けたまふは皇胤に限る。これ皇祖の神勅において、すでに明示したまへるところにして、政権ときに推移あり、国運ときに盛衰なきにあらざれども、この大義に至りては、かつて微動だにせず」

『帝室制度史』は『日本書紀』などいくつかの資料を示し、皇統が皇胤に限られること、歴代天皇はこの神勅に基づいて皇位を継承してきたことを説明しています。皇胤ではないものによる皇位継承は永遠にあり得ないことになります。ただし、神話や神勅を否定するなら話は別です。あり得ないことがいま起きているとすれば、その背景には戦前までの歴史を否定する無神論的歴史観があるということでしょうか。


▽2 上古の成法の例外、賜姓皇族の例外



皇胤といっても、皇位継承資格が認められる範囲には古来、限りがありました。

「皇胤子孫、何世に至るまで皇位を受けたまひ得べきかについては、大宝令には、五世以下皇親のかぎりにあらずとなせり」

大宝律令では、天皇の五世以下は皇族とはされず、皇位継承資格はないとされました。「親王より五世は、王の名得たりといへども、皇親の限にあらず」(継嗣令)。しかし歴史上の例外がありました。

「されど継体天皇の、応神天皇五世の孫をもって皇祚を受けたまへるを見れば、これ必ずしも上古の成法にあらざるを知るべし」

武烈天皇のあと皇位を継承した継体天皇は、応神天皇の五世の孫でした。

中世になると賜姓が行われるようになります。賜姓皇族には皇位継承権はありません。しかしこれにも歴史の例外がありました。

「中世以後、親王、王、賜姓のこと起こりてより、皇子皇孫といへども、姓を賜はりたるうへは、皇親の身分を失ひ、皇位継承の資格なきを常例とせり。ただし光孝天皇の皇子定省(さだみ。宇多天皇)の賜姓後親王に列し、皇位に即きたまへるは、唯一の異例なり」

宇多天皇は、父光孝天皇によって臣籍降下されていましたが、父帝崩御ののち皇籍に復し、立太子ののち践祚しました。

明治になると明文法としての皇室典範(明治22年)が制定され、永世皇族制が定められました。しかし皇室典範増補(同40年)では臣籍降下が制度化され、降下した皇族の復籍は否定されました。

「皇室典範の制定に至り、皇男子孫は永世にわたり皇族の身分を有し、したがひてまた、皇位継承の資格を失はざるものと定めたまへるとともに、皇室典範増補により、王に家名を賜ひ華族に列せしむるの制を定め、また皇族の臣籍に入りたる者は、皇族に復することを得ずと定めたまへり」

敗戦後、皇籍を離脱した旧皇族の復帰がいま提案されていますが、復籍を否定する古来の考え方が大きく立ちはだかっています。


▽3 皇女即位あるも配偶まさず


なぜ女系は認められないのか、『帝室制度史』は以下のように説明しています。

「皇統はもっぱら男系に限る。皇女、臣籍に婚嫁したまへば、その所出はもとより皇胤のかぎりにあらず。推古天皇以後、ときとして、皇女即位の例あること、つぎに述ぶるがごとくなれども、皇女の即位したまふは配偶まさざる場合に限れり。けだし夫に従ふの義と相容れざるによるなり。

皇統の男系主義は社会全般の男系継承主義を前提としているようにここでは読めます。皇女の即位もあくまで例外と考えられ、独身を貫くことが前提とされています。

「皇位を承けたまふは、男系の皇子孫に限るのみならず、また皇男子に限るを上古以来の常典とす。神武天皇より崇峻天皇に至るまで32代、かつて女帝の立ちたまへる例なかりき。ゆえに神功皇后は、大政を行はせらるること69年に及びたれども、即位のことなく、摂政をもって終りたまへり。清寧天皇の崩後、皇嗣辞譲して践祚したまはざるにより、飯豊青(いいとよあお)尊は、政を秉(と)りたまふこと約10か月、また皇位に即きたまはざりき」

飯豊青皇女は飯豊天皇とも称されますが、不即位天皇という扱いのようです。大きく変わるのは推古天皇以後です。しかし女性天皇はやはり例外扱いでした。

「推古天皇以来、皇女即位の例を生じたりといへども、けだし事情やむを得ざるに出づる異例なり。その多くは、皇嗣の成長を待ちたまふがためにして、
舒明天皇崩御のとき、妃腹の皇子中大兄(天智天皇)なお年少なりしをもって、皇后宝皇女(たからのひめみこ)立ちたまひて皇極天皇となりたまひしがごとき、
文武天皇崩じたまへるとき、皇子首(おびと。聖武天皇)なお幼少なりしにより、元明、元正両女帝相継いで立ちたまひしがごとき、
桃園天皇崩じたまへるとき、皇姉後桜町天皇たちたまひて、皇子英仁親王(後桃園天皇)の成長を待ちたまひしがごときみなこれなり」

女帝は「中継ぎ」といわれるゆえんです。それにしてもなぜ女帝は否認されるのか、男系主義の本質は何でしょうか。


▽4 皇家の家法を確立した旧皇室典範の男系主義



ほかの要素も指摘されています。天皇の外戚の存在です。

「ときとしては、また外戚の権勢によると推測せらるるものなきにあらず。崇峻天皇の崩後、欽明天皇の皇女にして、敏達天皇の皇后たりし豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ。推古天皇)の皇位に即きたまひしがごとき、後水尾天皇譲位の際には、皇子あらざりしをもって、皇女興子(おきこ)内親王(明正天皇)を立てたまひしがごときこれなり」

「そのほか、天智天皇の皇女にして、天武天皇の皇后たりし持統天皇の、はじめ朝に臨みて制を称し、皇太子草壁皇子薨去ののち、皇位に即きたまひしは、天武天皇の諸皇子まししも、おのおの異腹の所出にして、紛争の眼前に迫りしによることは、史上にこれを徴すべく、
聖武天皇、皇太子夭したまひてのち、皇后安宿媛(あすかべひめ)の生むところの阿倍(あべ)皇女を皇太子に立てたまひ、皇太子のちに孝謙天皇となりたまひしは、とくに異例に属すれども、安宿媛が、臣下の女をもってはじめて皇后に立ちたまひしに合せ考ふれば、また外戚藤原氏の権勢によるところなしといふべからず」

こうして『帝室制度史』は女性天皇があくまで例外であることを強調し、明治の皇室典範が定める男系継承主義こそが皇家の家法を永遠に確立するものだと言い切っています。

「かくのごとく皇女の皇位を継承したまひしは、いづれも一時の権宜にして、祖宗の遺法にあらず。ゆえに皇室典範の制定に至り、『大日本国皇位は祖宗の皇統にして男系の男子、これを継承す』と規定して、皇祚を祚みたまふは、男系の皇男子に限ることを明らかにせり。けだし祖宗の遺意を紹述して、永遠の恒典を確立したまへるなり」

したがって女性天皇の制度化はむろん、まして女系継承容認はあり得ないということになりますが、その根拠は結局のところ、天壌無窮の神勅と皇統史の実態以外には見当たらないように見えます。既述したように、『帝室制度史』は全6巻のうち1、2巻が「国体」に当てられています。「国体」論の立場から女系継承否認論が展開されてもいいのではと思いますが、そうした解説はありません。

『帝室制度史』はこのあと、「ここに歴代天皇の略系を掲げ、もって皇位継承の史実を概観せんとす」と述べ、系図を載せていますが、ここでは引用を省略します。

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