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小泉首相の靖國神社参拝と中国──江沢民から胡錦涛へ。明日への予兆(「神社新報」平成15年10月6、13、20、27日号連載)


 日中関係は近年、とりわけ江沢民前政権時代に、歴史問題をめぐって冷え切った。小泉首相の靖國神社参拝に対する中国政府の批判はなほ厳しいものがあるが、中国問題の専門家たちは今年(平成15年)3月、政権を譲り受けた胡錦濤国家主席の誕生以来、両国関係に変化の兆しを読む。胡主席は「抗日戦争」を知らない第4世代の指導者。首相参拝定着、引いては国家護持を願ふならば、新政権の新たな動きに注目せずにはゐられない。

 靖國神社問題を中心に、日中関係の過去と現在、未来を考へる。


▢1 平和友好条約締結二十五周年



 日中平和友好条約締結から25周年の今年(平成15年)8月9日、北京で記念の祝賀会が開かれた。昨年の正常化30周年に続く大規模な催しで、日本の村山富市、橋本龍太郎元首相らも出席する大佳節の宴のはずだったが、小泉純一郎首相は招かれず、中国側も胡錦濤国家主席や温家宝首相は欠席した。

「ぎくしゃくした関係」の理由を、日本の通信社は

「小泉首相の靖國神社参拝が影を落とし」

 と報道した。けれども逆に、中国の一部指導者が靖國神社批判を語らなかったことについて、中国側の「一定の配慮」と解釈する報道もあった。

▽「一定の配慮」?

 日本の報道では、温首相は祝賀会翌日、訪中した福田康夫内閣官房長官と会談した際、小泉首相の早期訪中実現に期待を表明する一方で、

「日本の指導者が靖國神社に参拝する問題がある」

 と、名指しは避けながらも、首相参拝が首脳相互訪問の障害だと述べた。中国新政権が靖國神社問題に言及したのはこれが初めてといはれるが、胡主席の方は福田長官らとの会見で、歴史問題や靖國神社参拝に触れることはなかった。

 11日、終戦記念日を前に来日した中国の李肇星外相は川口順子外相に対して、

「両国首脳の相互訪問を望むが、日本の指導者が靖國神社を訪問するので困難になってゐる」

 と語ったものの、小泉首相との会談では参拝について言及しなかった。他方、日本記者クラブでの会見では、

「過去の戦争に対して重要な責任を負はなければならない。A級戦犯が祀られる靖國神社に政府の指導者は参拝すべきではない」

 と主張したと伝へられてゐる。

 真正面からの小泉参拝批判は避け、しかも国家主席は黙して語らない──。ある全国紙は、

「日中関係を改善していくきっかけをつかみたいと考へ、一定の配慮を示したのではないか」

 と分析してゐる。

▽戦略的日中関係へ

 ところが、中国外務省および同大使館のホームページを見ると、日本の報道とは会見内容に相違が見られる。たとへば胡主席は福田氏らとの会見で、歴史問題に触れないどころか、

「3つの重要文書の原則と精神の遵守」

 を主張してゐる。

 3つの重要文書とは、

①昭和47(1972)年の日中共同宣言、
②53年の平和友好条約、
③平成10(98)年の共同宣言

 である。

 ③は行く先々で「正しい歴史認識」を強調し、日本国民の反撥を買った江前主席の来日時に作成された。

「過去を直視し、歴史を正しく認識する」

「日本側は72年の共同声明、95年の村山首相談話を遵守し、中国への侵略によって災難と損害を与へた責任を痛感し、深い反省を表明」

 と明記する。「戦後50年」の村山談話は

「我が国の侵略行為や植民地支配などが、多くの人々に耐へ難い苦しみと悲しみをもたらしたことに、深い反省の気持ちに立って」

 と表明してゐる。

 中国の報道では、胡主席は歴史認識問題や小泉首相の靖國神社参拝に

「あへて触れなかった」

 のではない。かといって江沢民張りの強硬姿勢といふのでもない。むしろ慎重な姿勢ながらも

「中日関係は双方にとって、もっとも重要な二国間関係になった」

 と語り、日本批判より、戦略的な両国関係を築かうとする新方針を表明したと理解できる。

▽新しいサイン送る

 温首相の場合も、中国政府の公式発表では、福田長官に靖國神社参拝問題を直接語ったとの記事は見当たらないが、平和友好条約締結当時の首相である亡父赳夫氏の貢献を賞賛し、

「平和友好条約の原則と精神」

 を確認した上で、

「歴史を鑑として未来に向かひ」

 といふ江沢民以来の常套句のほかに、

「戦略的視点から両国関係を捉へ把握し、とくに歴史と台湾問題に善処し」

 と付け加へてゐる。

 中国新政権は党序列の上位3人が福田長官と会談した。異例の厚遇は、首相の女房役で強い影響力を発揮しうること、現内閣では事実上の外相の立場にあることなどを認識した上で、

「一定の配慮」

 どころではない、日本に対する新しいサインを積極的に送らうとしたものと見られる。


▢2 江沢民前国家主席「反日」の背景



 なぜ中国は「反日」姿勢を募らせるやうになったのか。

 じつは歴史問題が日中外交の主要課題に浮かび上がったのは、「戦後50年」を経た1990年代後半からで、わづか10年足らずの現象である。

『中国はなぜ「反日」になったか』の著者、東京新聞の清水美和編集委員によると、毛沢東主席、周恩来首相が指導した時代は


「日本軍国主義の復活」

 を警戒したものの、国民の反日感情を煽ることは避けてゐた。しかし、

「天安門事件で共産主義の理想が色あせ、党の威信が揺らいだことで、共産党は支配の正当性を強調するために、抗日戦争の記憶を呼び起こすことが必要になった」

 といふ。

 それは江沢民前国家主席の時代である。江主席の「反日」とは何だったのか。

▽独裁維持のために

 江沢民は鄧小平の後継者として、1989(平成11)年に党中央委総書記、党中央軍事委主席となり、90年に国家中央軍事委主席に就任、93年に国家主席に選任された。

 総書記に抜擢された89年といへば、急死した親日派の胡耀邦前総書記を追悼する学生たちが北京の人民英雄記念碑に花輪を捧げることに始まり、やがて民主化要求デモに発展したのを政府が武力で弾圧、数百人の犠牲者を出した天安門事件の起きた年である。

 江沢民はこの民主化運動を

「反革命暴乱」
「売国主義」

 と決めつけた。一党独裁体制を維持するには教育の立て直しこそが急務とされ、翌90年から全国の大学では軍事訓練が義務づけられ、愛国「反日」教育が各地で展開されるやうになる。

 当時、ソ連では共産主義時代が終はりを告げてゐたが、中国では鄧小平ら「第2世代」の時代が終末期を迎へ、江沢民ら「第3世代」の権力が確立される時期と重なってゐた。

 しかし、江沢民の権力掌握は順調ではなかった。そこで江沢民は対外強硬姿勢を示すことで力を誇示しようとする。折しも日本では細川内閣、村山内閣と不安定な連立内閣が猫の目のやうに代はる。いはゆる閣僚の「問題発言」が格好の標的とされた。

 95年3月には銭其琛副首相兼外相が民間による戦争賠償請求運動への支持を表明し、8月15日に江沢民は党幹部や学生らを連れ立って盧溝橋の抗日戦争記念館を訪れる。さらに9月には「抗日戦争勝利50周年」記念大会で、

「日本侵略軍によって中国人3500万人が死傷し、南京大虐殺だけで30万人以上が死んだ。直接被害だけで1000億米ドルをもたらした」

 と演説する。

「反日」は頂点に達した。

▽「過去終結」に失敗

 それから3年後、平和友好条約締結20周年の98年11月、江沢民は中国の国家元首として初来日する。

 この来日は、日中外交当局にとって、

「過去を終結させ、未来を切り開く」

 はずだった。前年のアジア金融危機の際、日本、中国、東南アジア諸国が協力してヘッジファンドの猛威をはね除けた。中国指導部内で米国一極支配を牽制するために日中の協力関係を築くべきだとの考へが強まってゐたといふ。

 98年3月の全国人民代表大会で、李鵬首相は画期的なことに

「中日関係は全体として発展の勢ひを維持してゐる。我々は日本が平和と発展の道を歩んでゐることを支持する」

 と演説する。率直な日本評価は、同時期の「知日派」唐家璇の外相就任と相俟って、新時代の幕開けを予感させ、外交当局は日中共同声明、平和友好条約に続く「第三の文書」の作成に着手した。

 ところが、来日した江沢民は、

「平和と発展のための友好協力パートナーシップ」

 を謳ふ共同宣言の内容に激怒する。

「過去を直視し、歴史を正しく認識する」

「日本側は中国への侵略によって災難と損害を与へた責任を痛感し、深い反省を表明した」

 とはあるが、「謝罪」が明記されてゐなかったからだ。1カ月前の日韓共同宣言には「お詫び」があったのにである。

 共同宣言作成の過程で、

「歴史認識をきちんと書いてもらへば謝罪の表現はなくても構はない。今後、2度と歴史問題を提起するつもりはない」

 とまで語る中国外務省の高官もゐたといふ。しかし「反日」「親米」の江沢民は、歴史問題への深入りを避け、新時代に踏み出さうとする自国の外交当局に対して違和感を抱いてゐた。

 そこで「平和」「友好」どころか、日中の溝を深める行動に出る。小渕恵三首相との首脳会談で

「日本は中国にもっとも重い被害を加へた」

 と噛みつき、宮中晩餐会でも日本を無遠慮に批判した。さらに行く先々で

「正しい歴史認識」

 を強調し、日本国民の顰蹙を買った。


▢3 胡錦濤政権の対日重視



 胡錦濤体制が中国共産党第16回大会で選出されたのは昨年(平成14年)11月。前後して、中国の高級誌『戦略と管理』に人民日報の馬立誠論説委員が「対日関係の新思考」と題する論文を掲載した。

▽馬立誠論文の予感

「日本は事実に即していへば、アジアの誇りである」

「村山富市元首相、小泉純一郎首相らは、日本が侵略戦争を発動したことへの反省を表明してゐる。日本の謝罪問題はすでに解決してゐる」

「もっとも重要なことは、前を見ることだ。アジアの要は中国と日本であり、両国国民は共に自らの民族主義を反省し、狭隘な考へから脱却し、一体化に向けて邁進していかなくてはならない」

 日中関係が冷え切った江沢民前政権ではおよそ考へられないやうな内容で、中国では感情的な反撥が噴出したが、日本では月刊誌が競って翻訳を掲載するなど、日中両国で注目された。

 馬立誠は曾慶紅国家副主席のブレーンとされる。曾慶紅は江前主席の腹心だが、前主席とは異なり、対日重視の新外交を目指してゐる。

 昨年4月、小泉首相が靖國神社を参拝したとき、江主席は

「絶対に許せない」

 と憤慨し、李肇星外務次官(現外相)は

「まったく受け入れられない」

 と反撥したのに対して、曾慶紅は来日して

「歴史を鑑として未来に向かひ」

 と講演する一方で、

「友好は両国民が要望してゐることで、新世紀に必要だ。妨害と雑音を排除し、より発展させていかないといけない」

 と強調、ひと味違ふ姿勢を示した。

 野中広務・自民党元幹事長との太い人脈をもつ知日派でもある。

 馬立誠論文は曾慶紅の対日重視の表明と見られ、江沢民の腹心だけに対日外交の進展を予感させた。

▽「歴史」が脇役に

 今年(平成15年)1月に小泉首相が靖國神社に3度目の参拝を果たす。

 すると中国外務省のスポークスマンは

「中国政府は断固反対」

 と表明、楊文昌外務省副部長や武大偉駐日大使が日本政府に厳重抗議した。中国新政権誕生直後から日中関係の悪化が予測された。けれどもさうはならなかった。

 4月に発行された『戦略と管理』に、中国人民大学の時殷弘教授による「中日接近と〝外交革命〟」と題する論文が載った。

「もっとも重要なのは国の安全と利益であり、歴史問題の解決ではない」

「中日友好を望んでも不可能だ。通常の関係で満足すべきだ」

「互ひの不信、摩擦、対立は避けられない。しかし頻繁で率直な対話を継続すれば、共通利益を軸にビジネスライクな関係を築けるし、戦略的な信頼関係も生まれる」

 胡政権の外交政策に影響力を持つといはれる時教授の論攷だけに、新政権の対日接近の意気込みが伝はってくる。しかも、対日重視政策をめぐる江沢民と胡錦濤との主導権争ひの様相さへ窺へる。

さらには今年5月、ロシアで実現した小泉・胡錦濤会談では、胡主席は異例なことに、初対面の小泉首相にいきなり

「日本のSARS支援に感謝する」

 と謝意を示し、外交関係者を驚かせたといふ。この会談で胡主席は

「歴史を鑑とし、未来に目を向ける」

 といふ江沢民以来の決まり文句に続いて、

「長期的視野に立ち、大局を踏まへる」

 といふ「新八文字方針」を付け加へた。しかも靖國神社参拝問題に触れることもなかった。

 中国ウォッチャーは

「首脳会談の主役であった歴史問題が、その座を降りた瞬間」

 と表現する。

▽権力強化した自信

 中国では昨年11月以来、新型肺炎SARSが猛威を振るった。対策が遅れ、被害が拡大したことから、人民解放軍の隠蔽体質があぶり出され、軍の実権を握る江沢民の威信が低下した。

 胡主席は4月、感染が広がる広東省の医療施設にマスク無しで乗り込み、SARS対策に果敢に取り組んだが、逆に江沢民、曾慶紅の姿は公の場から消えた。小泉首相との首脳会談を前にした胡主席の異例の行動は、権力を強化した自信に裏打ちされてゐると理解される。

 9月には党ナンバー2の呉邦国・全国人民代表大会常務委員長が来日、先般は初の日中韓首脳による三国間協力に関する共同宣言が調印された。チチハルの遺棄化学兵器問題や珠海での日本人観光客の事件にもかかはらず、胡錦濤政権の対日外交は積極性を増す。むろん小泉首相の三度にわたる靖國神社参拝にもかかはらずである。


▢4 終戦記念日直前の外相来日



 今年(平成15年)の終戦記念日の直前、中国の李肇星外相が来日した。昨年(平成14年)4月に小泉純一郎首相が靖國神社を参拝した際、

「感情、理性の両面でも、東洋の道徳および国際的な道義においても受け入れられない」

 と語った、当時の外務次官である。

 平和友好条約締結25周年で福田康夫内閣官房長官らが訪中したのと前後しての来日で、日本では、川口順子外相らに靖國神社参拝について釘を刺しながら、首相本人の前では言及しなかったと伝へられてゐるが、中国外務省のホームページでは首相会見や日本記者クラブでの会見で歴史問題が語られたとされる。

▽小泉・李会談の中身

『人民日報』は、李外相が

「小泉首相は(一昨年10月の)訪中時に、日中の不戦を盧溝橋で明確に表明してゐる」

 と指摘し、

「歴史は重荷ではなく、知恵と力の源泉となるべきだ。それでこそ未来志向で両国関係の健全な発展を推進できる」

 と強調したと記述する。

 小泉首相は一昨年8月に靖國神社を参拝後、中国や韓国などから厳しい批判がわき上がると、関係修復のため10月に訪中し、日中間の戦端が開かれた北京郊外の盧溝橋を訪ね、続いて「反日のシンボル」中国人民抗日戦争記念館を視察した。当時の『人民日報』は

「小泉首相は過去の侵略戦争で犠牲になった中国人に心からのお詫びと哀悼の意を示し、過去の歴史を反省する必要性を強調した」

 と伝へてゐる。

 とすると、李外相は今回、首相本人に「日本の侵略」といふ歴史認識の確認と「お詫びと反省」をあらためて要求したのか。どうもさうではない。

▽記者会見の哀願調

 李外相のクラブ会見は明確だ。日本の報道では北朝鮮の核開発問題が中心だが、『人民日報』ではもっぱら歴史問題を語ったとされてゐる。李外相の発言内容は次の3点と伝へられる。

①日本の軍国主義が引き起こしたあの戦争はアジア諸国に空前の災難をもたらした。その歴史は抹殺できない。歴史を鑑とし、未来に向かふことは日中関係の発展にとって重要だ。

②日本の一般国民による戦死者追悼は完全に理解できる。しかしA級戦犯は一般の戦死者ではなく、戦争に対して重要な責任を負ってゐる。A級戦犯が祀られる靖國神社に、日本政府の指導者は二度と参拝すべきではない。

③中日両国は2000年間、互ひに学び合ってきた。改革開放、現代化、またSARS対策への協力に感謝してゐる。双方の協力で歴史の暗い影から抜け出すことを望む。

 ③などは大国らしからぬ哀願調で、終戦記念日直前といふ時期を選んだ李外相来日には、単に首相の靖國神社参拝を批判する以上の目的があることが垣間見える。

▽国内問題で手一杯

 訪日の目的をさらに明確に浮かび上がらせるのは、李外相の紙上インタビューである。

 外相は日本のあるブロック紙の質問に対して、

「歴史と台湾問題は現実的に対処すべきだ。重要なのは双方が戦略的に、高度で長期的な視点から両国関係の大局をしっかりつかんで事に当たることだ」

 と回答してゐる。

 むろん首相参拝を容認したわけではないが、中国問題専門家によると、江沢民時代は日本に対して「戦略的関係」といふ表現が用ゐられることはなかった。胡錦濤政権は日中関係をもっとも重要な関係と認識し、戦略的に現実的に対応しようとしてゐる。ここに新政策の兆しが見える。

 その背後には何があるのか。ある中国問題の専門家は語る。

「日中貿易総額が1000億ドルを超え、日本の存在を抜きにして国は成り立たない。一方、国内の経済格差は拡大し、地方では暴動も起きてゐる。いまは国内問題で手一杯。政権批判はかならず『反日』行動となって現れる。対日重視の胡錦濤が権力を完全に掌握してゐるわけではないし、江沢民は完全に引退したわけでもない。今後、『対日重視』に向かふか、『反日』に戻るか。舵取りを誤ると、親日姿勢を批判されて失脚した胡耀邦の二の舞になる可能性も否定できない」

 首相の靖國神社参拝の定着、ひいては国家護持を悲願とするなら、中国の現状を正確に把握し、あらためて戦略を練る必要があらう。


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