宮中祭祀を改変させた「ラスプーチン」を代弁!? ──星野甲子久『天皇陛下356日』を読む(2016年7月8日)
(画像は宮中三殿。宮内庁HPから拝借しました。ありがとうございます)
前回、昭和の宮中祭祀簡略化について、最初に公にしたのは、私が知るかぎり、読売新聞の皇室記者だった星野甲子久(ほしのかねひさ)さんによる『天皇陛下の356日──ものがたり皇室事典』(1982年)だとお話ししました。
ただ、この本は上中下三巻のデラックス本で、図書館でもなかなかお目にかかれないようです。けれども、2年後の昭和59年に新書版で出版された『天皇陛下356日──いま、新しい素顔、魅力を知る百問百答』なら、うまくすれば古書で手に入るかも知れません。
そんなわけで、前回、言及したついでに、久しぶりにページをめくってみたのですが、私は思わず吹き出してしまいました。
というのも、本の推選文を書いているのが、ほかならぬ昭和の祭祀簡略化を決行した、「昭和のラスプーチン」その人だったからです。
▽1 祭式変更の理由が不明
この本には2カ所、昭和の宮中祭祀簡略化について説明されています。
最初は、「皇居の朝の日課」(「第一章 陛下のプロフィール)所収)です。
まず宮中三殿についてで、賢所と皇霊殿は内掌典が、神殿は掌典が奉仕していること、毎朝、日供(にっく)が行われ、当直の侍従が天皇に代わり、拝礼すること(毎朝御代拝)、毎月1日、11日、21日は掌典長が奉仕すること(旬祭)が、解説されています。
さらに、毎朝御代拝は明治4年に始まったと伝えられること、以前は上直(じょうちょく)侍従が馬車で三殿に向かったが、戦時中は自動車にかわり、服装も浄衣から供奉服となったが、戦後、馬車、浄衣にもどったことなど、簡単に歴史を振り返ったあと、
「昭和50年の9月からは、白い浄衣がモーニングコートに、馬車は自動車にかわり、拝礼の形式もそれまでのような殿上拝礼ではなく、木階の下の拝座で行われるようになった」
と昭和の祭祀改変について述べています。
しかし残念ながら、なぜ祭式が変わったのか、については説明されていません。
この解説では、明治以降、毎朝御代拝のあり方は、とくに戦前、戦中、戦後にかけて変遷があり、時代の状況に応じて変わり得るものだったのであり、昭和の簡略化も同様である、というようにも読めます。
▽2 祭式には法的根拠がある
つまり、昭和の祭祀簡略化はワン・オブ・ゼムにすぎないということになります。
しかしそうなのでしょうか。
当メルマガの読者ならすでにご存じのように、祭式には法的根拠があります。
近代以後は明治41年制定の皇室祭祀令があり、その附式に祭式が定められていました。祭祀令は昭和2年、20年に改正され、日本国憲法の施行に伴い、廃止されましたが、宮内府長官官房文書課長の依命通牒で「従前の例に準じて、事務を処理すること」とされ、祭祀令および附式が準用され存続してきたのです。
皇居の奥深くにある聖域で、公務員が関わり、国の予算が多少とも支出される事柄について、法的根拠がないことなどあり得ません。
戦時中の変更は、戦時中であるがゆえの非常措置であり、当時は三殿ではなく、仮殿で行われていたと私は聞いています。
それなら昭和50年、宇佐美毅長官、富田朝彦次長、入江相政侍従長、永積寅彦掌典長のもとで行われた毎朝御代拝の変更はいかなる法的根拠に基づいていたのでしょうか。その説明がないのです。
蛇足ながら、記述の誤りを指摘すると、星野さんは侍従が三殿の内陣で拝礼したと書いていますが、正しくは外陣です。
▽3 「ご高齢の陛下のご健康」
2番目は「皇居の新年はどのように始まるか」(「第四章 陛下とセレモニー」所収)で、元旦未明の四方拝について説明されています。
その起源は第10代崇神天皇、あるいは第11代垂仁天皇のときとする諸説があるが、年頭第1の行事とされるようになったのは第59代宇多天皇からであること、京都時代は清涼殿の庭上で行われていたが、明治5年から賢所の庭上で行われるようになり、さらに神嘉殿前庭で行われることになったことなど、歴史を概観し、そのあと、昭和の改変に触れています。
つまり、「昭和52年の元旦からは場所を神嘉殿前庭から吹上御所のベランダに移し、さらに陛下が80歳におなりになった56年からは、吹上御所の回廊に移して、そこで四方拝が行われるようになった」というのである。
その理由については、星野さんは続けて、
「場所の変更はご高齢の陛下のご健康を考慮してのことで、吹上御所に移ってからはご服装も黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)ではなく、モーニングコートのままということにかわったのである」
と説明しています。
▽4 事実関係が異なる
これも毎朝御代拝の変更と同様で、歴史的変遷については説明しながら、祭式の法的根拠については説明がありません。
それよりなにより、事実関係が、少なくとも私の理解とは異なります。
入江相政が、昭和天皇のご学友である永積寅彦に代わって侍従次長となったのは昭和43年4月、5か月後、永積は掌典長となりました。入江の『日記』によると、入江が新嘗祭を始め祭祀改変に動き出したのはそのあとです。
そして翌44年9月、侍従長に昇格した入江は、年末年始の祭祀簡略化を断行します。
『入江日記』の同年12月26日には、
「お上に歳末年始のお行事のことにつき申し上げる。四方拝はテラス、御洋服。歳旦祭、元始祭は御代拝。他は室内につきすべて例年通りということでお許しを得、皇后様にも申し上げる」
と書かれています。調べればすぐに分かるものを、50年以降と強弁しなければならない理由があるのでしょうか。
入江はなぜか急に変更を言い出しました。星野さんはその理由を「ご高齢の陛下のご健康を考慮して」と説明していますが、『日記』には正当化できる記述は見当たりません。昭和天皇はこのときまだ60代、48年9月には半月に及ぶヨーロッパ御訪問もなさいました。これが「ご高齢」でしょうか。
▽5 カバーに添えられた編集部注
星野さんの本が昭和の祭祀簡略化について、ほかに先んじて記録しているのは、さすがだと思います。長年、読売の皇室記者を務め、その後、日テレの皇室解説委員になっただけのことはあると思います。
しかし、祭祀簡略化問題についていえば、星野さんの独自取材に基づいて解説されているというより、私は祭祀簡略化を敢行した入江自身の説明を聞かされているように気がしてなりません。
この本が出版されたのは59年6月です。昭和50年から本格化した祭祀簡略化について、58年の正月来、週刊誌報道をめぐって社会問題化していた最中でした。それなのに、それらしい気配がまったく感じられないのは、なぜでしょうか。
それで何気なく、新書のカバーに書き添えられた編集部の言葉を読み、私は爆笑したのです。いわく「なお、本書作成にあたり、入江相政侍従長よりご助言、著書の推選をいただきました。編集部」。
私は思いたくありませんが、星野さんは入江の代弁者を演じさせられたのではありませんか。もしそうだとすると、昭和の祭祀簡略化に関して、ラスプーチンの意に反する説明が書き込まれているはずもないのです。