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個人の壁を乗り越えられない反天皇論者──「国旗・国歌」反対派の恨み節(2008年04月01日)


▽1 君が代の「さまざまな歴史」?

 前号では、「文藝春秋」4月号が特集した、宮内庁長官「苦言」騒動をテーマとする座談会の批判を書きました。座談会で指摘されている、戦後の「開かれた皇室」の行き詰まりとは、座談会でほとんど掘り下げられていないマスコミの演出という外的要因があり、戦後の日本が絶対無私なる天皇の祭祀を非合理主義として排斥してきたツケでもある。いわばポツダム天皇制の破綻なのだと指摘しました。

 読者から予想を上回る多くの反響があり、大変うれしく思います。今号では、議論を発展させ、戦後の日本人が、世界に誇るべき伝統的精神文化を退け、逆に合理主義、個人主義を重んじてきた背景について考えてみたいと思います。

 たとえば、各地で桜便りが聞かれるこの季節、相変わらず国旗・国歌論争が続いています。

 前にも書きましたが、今年2月、東京地裁は、卒業式の君が代斉唱で起立しなかったことを理由に、教育委員会が定年退職した教職員の再雇用を拒否したのは違法だとする判決を下しました。

 一方で、教職員に起立・斉唱を求める職務命令は違憲ではない、と判決は原告の主張を却けていますが、メディアは「さまざまな歴史を背負っている日の丸・君が代を国旗・国歌として定着させるには自然なかたちが望ましい」などと、あたかも君が代それ自体に問題があるかのように報道しています。


▽2 思想は要求されていない

 どうして君が代自体の問題としてとらえなければならないのでしょうか。

 昨年2月、最高裁は、入学式で校長が教師に君が代のピアノ伴奏を職務命令することは思想・良心の自由を保障する憲法に違反しない、という判断を示しましたが、きわめて興味深いことに、この判決は、教師の君が代「侵略」史観をひとつの歴史観としてはっきりと容認してさえいます。そのうえで、ピアノ伴奏を拒否することが君が代に否定的な教師の歴史観・世界観と同じではないし、校長の命令が教師の歴史観・世界観を否定することにはならない、として、校長命令を合憲と認めたのです。

 君が代伴奏を強制されるのがイヤだ、と教師が考えたとして、それが不快感程度のものなら、憲法が保障する本来の「思想・良心」とはいえませんし、逆に教師が、校長の職務命令などはいっさい認めない、という組織と秩序を否定するような「思想」の持ち主だったとしても、その「思想」が内心にとどまっているかぎりは自由です。

 それは「思想・良心」と「行為」とは別だからです。いみじくもこの音楽教師がいうように音楽が「心の表現」であるとしても、クリスマス・キャロルを歌えばクリスチャンになるのでしょうか。「イマジン」を歌えば無神論者になるのでしょうか。そんなことがあり得ないことは教師自身がよく知っているはずです。

 君が代伴奏の職務命令は「思想・良心」を「侵害」するものではなく、あくまで公務員としての「行為」を「制約」するものです。要するに、卒業式・入学式は社会的儀礼であり、子供たちにとって一生に一度の晴れの式典だからこそ君が代も歌われるのです。思想が要求されているわけではありません。


▽3 歴史家のつまみ食い

 しかしそのような常識が通じない。それはなぜなのか。そもそも反対派が言う、君が代の「さまざまな歴史」とは何をさすのでしょうか。

 日本の「歴史」と結びつけて、敵愾心をむき出しにし、国旗・国歌反対を叫び続けた筋金入りのイデオローグといえば、山住正己・東京都立大学総長(故人)です。その山住氏が平成11年に衆院内閣委員会でこう語っています。

「日の丸・君が代問題は歴史的にとらえ直す必要があり、それを抜きにして容易な判断はできないことを、しっかり考えていかなければいけない」

 その歴史とはいったい何か、ですが、じつに興味深いことに、山住氏の歴史論は、君が代が『古今和歌集』の「詠み人知らず」の歌だったことから説き起こしながらも、明治初年のフェントンによる作曲に一気に話が飛んでしまうのです。山住氏は、古代にさかのぼって歴史を考え、フェントンの作曲の経過を詮議することは「重要ではない」「問題ではない」といいきっています。

 つまり、10世紀初頭にすでに詠み人さえ不明なほどだった古歌が、長い間に祝い歌として広まり、さまざまに歌い継がれ、親しまれていたという歴史には目を向けず、もっぱら近代の作曲に着目して、「軍人を除くと一般の大人は『君が代』など知らなかった」と断定するのです。

 まだ大学院生だった若き日に、東京芸大音楽部の図書室で埋もれていた、明治時代の国歌選定に関する資料の山を発掘し、すぐれた実証研究を積み重ねてきたはずの山住氏が、何のことはない、歴史のつまみ食いのようなことをしているのです。なぜでしょう。


▽4 恨みたっぷりの批判

 それは歴史家とはいいながら、結局、個人の体験を超えられないからではないでしょうか。山住氏は、「紀元節」の歌を歌わされた昭和10年代の小学校時代を振り返り、「人間も日本国民である限り、草木と同じく、天皇になびき伏す存在でなければならないとされていた」と恨みたっぷりに戦時体制下の天皇制を批判するのです。

 一時代の「天皇」体験が強烈なために、限られた時代の個人体験があたかも歴史全体の真実であるかのようにしか見えなくなっているのでしょう。

 おそらく同様のことは、矢内原忠雄や丸山政男などにも当てはまるのだろうと想像します。平和憲法擁護を叫び続けている老リベラリストたちや空襲被害の賠償を請求する老運動家たちにも共通することなのでしょう。

 あってはならない戦争での苦労には同情を禁じ得ませんが、戦後日本を代表する知識人たちが、じつに残念なことに、個人という壁を越えられず、歴史の全体像が見えない。そして一面的に君が代反対を叫び、天皇制を批判し、平和憲法擁護を訴えるのです。

 対照的に、同じ世代でも、しかもこれら知識人たちよりはるかに苦労したはずなのに、このような態度をとらない人たちもいます。

 たとえば、たまたま長年、お付き合いをさせていただいた、インパール作戦の生き残り兵士たちがそうでした。3人のうち1人しか生還できなかった、史上もっとも悲惨といわれる戦闘で、いや戦闘ならまだしも、飢えや疫病と闘い、命からがら生還した兵士たちの口から、私は天皇批判というものを聞いたことがありません。


▽5 無私なる天皇の祈りが見えない

 なぜなのでしょうか。私から見れば同じ戦争世代ですが、どうも決定的な違いがあるようです。それは戦争の時代を生きたという一般的な意味の戦争体験ではなく、筆舌に尽くしがたい戦地体験の有無です。生きるか死ぬかの戦地体験と銃後で「紀元節」の歌を歌わされたのとではまるで違います。ほんとうの体験者は沈黙し、そうでない者は観念的に声高に非をあげつらう、ということではないのでしょうか。

 同様のことが戦後の皇室ジャーナリズムにもいえそうです。

 皇室ジャーナリストのなかには戦争体験者もいます。といっても、せいぜい学童疎開程度なのでしょう。もちろん子供のころにひもじい思いをした体験は、本人にとってはつらい記憶でしょう。そして、それならなおのこと「戦後民主主義」は甘い蜜の味がするに違いありません。

 そうした個人体験がもしや天皇の歴史の全体像を見えにくくさせているのではないでしょうか。暗黒の戦前・戦中史→自由な戦後社会という単線的な歴史理解が邪魔をして、古来、無私なる祈りを連綿と捧げてきた天皇の歴史が見えない。忌まわしい私的体験にしばられて、「公」に徹してきた天皇が見えない。だから、文藝春秋の座談会では「祭祀をすべて止めるような抜本的な改革をしなくては」などという、まったく安易というほかはない、合理主義的な提案も平気でできるのではないかと想像します。

 したがって必要なのは、歴史のつまみ食いではない本格的な天皇史、日本史の研究です。しかしこれはなかなか大変です。第二次大戦後の独立国ならたかだか60年、アメリカでさえ二百数十年の歴史ですが、日本の歴史はその10倍の長さがあり、道のりの遠さに呆然と立ちつくすほかはありません。安直な批判の側にまわった方がどれほど楽なことか。しかし挑まなければならないのです。


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