見出し画像

「米と粟の祭り」を学問的に深めてほしい──竹田恒泰氏の共著『皇統保守』を読む その5(2016年5月3日)


 竹田恒泰氏の天皇論批判を続けます。

 これまで、天皇の祭祀は皇祖神だけを祀るのではないこと、「稲の祭り」ではないこと、つまり宮中祭祀に関する事実認識に誤りがないか、などと指摘してきたつもりです。

 今回はもう少し大嘗祭=「稲の祭り」説にこだわってみます。


▽1 なぜ鎌田氏を引用するのか


 竹田氏は共著のなかで、大嘗祭が「稲の祭り」であることを説明するのに、鎌田純一氏(神道祭祀)を引用しています。

「鎌田純一先生がおっしゃるのは、天皇が最初に新穀を神に捧げるお祀りであり、これが本義であると、ご説明されています」

 新穀=米、神=天照大神とする理解は誤っているとすでに申しましたが、竹田氏が鎌田氏を引用する理由は何でしょう。鎌田氏は平成の御代替わり行事に深く関与した人物ですが、功労者だとお考えなのでしょうか。私はむしろ疑いをいだいています。

 鎌田氏は、神道系大学で30年近く教鞭を執られたあと、平成の御代替わり時に宮内庁掌典職掌典となり、即位礼・大嘗祭に奉仕されました。

 専門は神社祭祀だったそうで、必ずしも宮中祭祀が専門ではありません。重なる部分は多いでしょうが、両者は似て非なるものだと思います。

 最大の違いは、神社の場合は氏子崇敬者の祈願が神職を「仲執持(なかとりもち)」として、それぞれの神に捧げられますが、宮中では天皇の祭りが天皇ご自身によって、皇祖神ほか天神地祇に対して執行されることでしょうか。

 鎌田氏は『皇室の祭祀』という著書もあるようですが、もともと神社神道の専門家なるがゆえに、もしかして神社祭祀と宮中祭祀の違いが十分に理解されていなかったのでしょうか。いや、そんなことがあるんでしょうか。

 ともかく、大嘗祭=「稲の祭り」説を唱えられ、正確さに欠ける学説が政府・宮内庁内に浸透するというさらなる不幸な結果を招いた、というのは恐らく確かなことなのでしょう。返す返すも悔やまれます。

 今日は憲法記念日ですが、大嘗祭が稲作信仰に基づく宗教儀礼なら、「国はいかなる宗教的活動もしてはならない」とする憲法に抵触しかねません。「国の儀式として行うことは困難」と政府が判断せざるを得なくなったのは道理です。

 尊皇精神がひときわ深いはずの神道学者による不確かな学説に基づいて、皇室伝統の祭祀が「国の行事」から排除されたのだとしたら、じつに不幸です。


▽2 稲作社会に伝わる収穫儀礼


 政府・宮内庁は大嘗祭=「稲の祭り」説に凝り固まっているようです。

 振り返れば、今上陛下の皇位継承後、政府および宮内庁は段階的に委員会を設置し、参考人の意見なども参考にしつつ、御代替わりの諸儀礼について検討しました。最大の問題は大嘗祭であり、政教分離でした。

「きわめて宗教色が強いので、大嘗祭をそもそも行うか行わないかが大問題に」(石原信雄『官邸2668日』)なったのです。

 そして、(1)即位の礼正殿の儀、祝賀御列の儀、饗宴の儀は国事行為として行われる。(2)大嘗祭については、国事行為として行うことは困難であり、皇室の行事として行われる。(3)その場合、大嘗祭は公的性格があり、費用は宮廷費から支出することが相当と考える、という検討結果がまとめられ、政府は了解したのです。

 御代替わり行事のうちでもっとも重要な大嘗祭が「国の行事」として行えないのは、昭和34年に賢所大前で挙行された今上陛下(当時は皇太子)の「結婚の儀」が「国の行事」とされたことと比較すれば、矛盾以外の何ものでもないでしょう。

 矛盾が生じた原因は、大嘗祭=「稲の祭り」説にあったと考えられます。

「大嘗祭は、稲作農業を中心としたわが国の社会に、古くから伝承されてきた収穫儀礼に根ざしたものであり、天皇が即位の後、はじめて、大嘗祭において、新穀を皇祖および天神地祇にお供えになって、みずからお召し上がりになり、皇祖および天神地祇に対し、安寧と五穀豊穣などを感謝されるとともに、国家・国民のために安寧と五穀豊穣などを祈念される儀式である。それは、皇位の継承があったときは、かならず挙行すべきものとされ、皇室の長い伝統を受け継いだ、皇位継承に伴う一世一度の重要な儀式である」(内閣官房『平成即位の礼記録』平成3年)

 大嘗祭が稲作儀礼である、稲作信仰であるという理解は政府のみならず、宮内庁も同様でした。宮内庁編集『平成大礼記録』(平成6年)にも瓜二つの記述があります。


▽3 「米と粟」に言及している


 そして竹田氏の引用元と目される鎌田氏の『平成大礼要話』(平成15年)も同様です。


 鎌田氏は「大嘗祭とはいかなる儀か」と問い、次のように説明しています。

「大嘗祭とは、天皇陛下が即位のあと、その年に収穫された新穀を皇祖天照大神および天神地祇(あまつかみくにつかみ)にお供えになり、また御親ら(おんみずから)召し上がる儀式のことであり、その意義は、天皇陛下が大嘗宮において、国家、国民のために、その安寧、五穀豊穣などを皇祖天照大神および天神地祇に感謝し、また祈念されるところにある。
 この大嘗祭は、稲作農業を中心としたわが国の社会に古くから伝承されてきた収穫儀礼に根ざしたものであるとともに、皇室に長く継承されてきた極めて重要な皇位継承儀礼である」

 政府・宮内庁の解説と表現がきわめてよく似ているのは、むしろオリジナルが鎌田氏にあることを推測させます。

 鎌田氏は竹田氏とは異なり、「天照大神および天神地祇にお供えに」と正確に説明していますが、「新穀」とするばかりで「米と粟」との記述はありません。けれども「稲作農業」というからには新穀=米なのでしょう。粟の存在は否定されています。

 鎌田氏は著書のなかで、御代替わり当時、かつて折口信夫が説いた「真床襲衾(まどこおぶすま)論」まがいの「多くの妄説が乱立」したことについて、田中初男の研究書『践祚大嘗祭』を読みもしないと批判し、さらに『常陸国風土記』に「新嘗」が記録されていることを指摘して、「稲の祭り」説を補強しています。


 なるほど「(大嘗宮の儀で天皇は)真床襲衾なるものにお籠りになる」という折口説は妄想であり、論外です。当メルマガも以前、批判したことがありますが、田中の著書は大嘗祭=「稲の祭り」説に立つものではありません。

 逆に、田中は米と粟に着目し、延喜式をみると、古代の新嘗祭や神今食(じんこんじき)では米と粟が同時に用いられたことが分かるし、天皇の日常の食事が米と粟だったことを推測させる記述もあると指摘したうえで、「大嘗祭においても、粟は古くから用いられていたものではないかと考えられる」と結論づけています。

 田中は数ページにわたって米と粟について考察しているのですが、鎌田氏はそのことには触れていません。『常陸国風土記』の場合もじつは粟の新嘗なのですが、鎌田氏はあくまで大嘗祭=「稲の祭り」説に固執しています。


 ところが、不思議です。

 大嘗祭のクライマックスである「大嘗宮の儀」の説明で、鎌田氏はきちんと「米と粟」について言及しています。


▽4 思考回路から粟が消える


「(14)御親供
 御飯筥の米御飯、粟御飯……などの神饌を、御親ら竹製の御箸でとられ、規定の数だけ枚手(ひらで)に盛り供せられる」

「(15)御拝礼・御告文・御直会
 ……天皇が御親ら、米御飯、粟御飯をおとりになり聞こし食(め)され、ついで陪膳女官の奉仕により、白酒・黒酒も聞こし食された」

 鎌田氏は、大嘗宮の儀が稲の儀礼ではなく、米と粟の儀礼であることを具体的に、正確に記録しています。

 しかしそれなら、どうして大嘗祭=稲作社会の収穫儀礼という解釈になってしまうのでしょう。粟の存在はなぜ思考回路から消えてしまうのでしょうか。まさか畑作の粟と水田耕作の稲が同じ農耕文化だとでもお考えなのでしょうか。

 そして、そうした「稲の祭り」説を、竹田氏はなぜ無批判に引用するのでしょうか。

 竹田氏は、大嘗祭=「農耕儀礼」と理解する原武史氏の祭祀廃止論には、伝統主義で対抗し、反論しました。また、前提は同じ大嘗祭=「稲の祭り」説に立ちながら、稲作儀礼だから政教分離原則に抵触すると解釈する政府の厳格主義には、限定主義で太刀打ちできるとお考えなのでしょう。

 けれども、粟の存在はそのような面倒な憲法論争も力業も不要だということを示唆しているのではないでしょうか。皇祖神のみならず天神地祇を祀り、米のみならず粟を捧げて祈り、みずから食される天皇の祭りは、葦津珍彦が説明しているように「国民統合の儀礼」だとすれば、論争は無用のはずです。

 竹田氏が「葦津に学ぶ」というのならなおのこと、議論の対立を免れない憲法論ではなくて、「米と粟」による天皇の祭祀の実際をあらためて見つめ直し、その意味を学問的に深めるべきではないでしょうか。(つづく)


いいなと思ったら応援しよう!